目次に戻る 前編へ


マジック・ホルマリン
後編

作:赤目(RED EYE)





「まあ、カナちゃんどうしたの!?」
 部屋の扉を開けた母親らしき女性が、女子高生が床に倒れているのを見ると、血相を変えて駆け寄ってきた。
 おっと、あぶないあぶない。男は母親が扉を開ける直前に女子高生から離れ、タンスの陰に隠れていた。
 なぜか、廊下を誰かが歩み寄ってくるごくわずかな音が、男には聞こえたのだ。普段からは考えられない聴力と機敏さである。これも不思議なMホルマリンのご利益に違いなかった。
「カナちゃん、カナちゃん」
 娘の名前を呼びながら必死にその肩を揺する母親の後ろ姿を見ながら、男は欲望を抑えきれなくなっていた。
 意外と若い母親だ。ひっつめにした髪に、清潔そうなうなじ。忍び寄って、ホルマリンを吸わせたハンカチを背後から突然口元に押しつけてみたい。
 男は欲望のまま行動した。新しくMホルマリンを一滴ハンカチに垂らすと、タンスの陰からまたもやピョンと母親の背後までジャンプする。異様な気配に気付いたか、母親は「ひっ」と息の呑んで振り返ろうとしたが、もう遅い。
 男が手に持ったハンカチが、その口元に押し付けられていた。
「うーん」
 母親は一瞬で気を失った。
「へへへ、チョロいぜ」
 男はニタリと笑うと、母親を娘の横に仰向けに寝かせた。
「親子どんぶりってやつだな。いい眺めだ」
 男は床に横たわる母娘のしどけない姿を見ながら、気持ちを昂ぶらせていた。だがなぜか、即物的な性欲は湧いてこなかった。性欲とは違う、だが同じくらい根源的な欲求が男を衝き動かしつつあったのだ。
 背後から忍び寄られた時の、女のおののく様子。抱きすくめられ、ホルマリンで意識を失うまでの間の短く絶望的な抵抗。そして昏睡する瞬間のけだるい呻きと弛緩する身体。
 男はそれら一連の事象に魅了されていたのだ。
 ああ、誰でもいいからもっと女をホルマリンで昏睡させたい。
 男の欲求は、今やそれであった。
 その時、玄関のチャイムが鳴った。
 すかさず気配を殺し聞き耳を立てる男。
 何度かチャイムが鳴ったあと、ガチャガチャと鍵を入れて回す音がする。
 男は、無駄のないしなやかな動きで物陰に身を隠した。
 誰かが玄関から入り廊下を歩いてきて、物陰の男のすぐ前を通った。
 すかさずホルマリンのハンカチを相手の口元に押し付ける。
「うぐっ、ぐもももも、ぐぅ……」
 相手を壁に押さえつけながら、しかし、男は衝撃を受けていた。
 オトコだ。相手は自分と同じオトコであった。
 ごつごつと無駄に節々の硬い身体。ザラザラの髭。脂切って荒れた肌。ヤニ臭い息。女と比べて全てが醜い要素の塊であった。
「ぐ……」
 相手は無念そうな吐息を漏らすと、不気味に白眼を剥いて気絶した。
「うきゃぁぁぁぁぁ!」
 男はわけのわからない叫び声を上げると、ぐったりともたれ掛ってきた相手の身体を乱暴に床へ打ち捨てて飛び退いた。
 鍵を持っていたところを見ると、たぶんこの家の主人なのだろう。
 そんなことはどうでもいい。オトコをホルマリンで眠らせても面白くもなんともない。むしろ気分が悪くなり吐き気がこみ上げてきそうだった。
 これで、女子高生と母親の二人を相次いで眠らせて、天にも昇る思いだった男の気持ちは最悪の状態になっていた。
「くっそー。なんでこの世に男なんて醜悪な生き物がいるんだ……。こいつが悪いんだ、この野郎」
 男は、気絶している主人の身体を二〜三度こっぴどく蹴り飛ばした。
 マジックホルマリンの効果は素晴らしく、そんな手酷い扱いをしても、ピクリとも眼を覚ます気配がない。
「口直しだ。次は最初の予定通り、例のナイスバディな女子大生を狙ってやる」
 男は再びベランダへ出た。




 男は満足していた。
 床に座り込んだ男の周りには、狙っていた女子大生と、偶然次々と部屋に遊びに来た友人の女子大生たちが倒れている。もちろん、男がホルマリンで眠らせたのだ。
 男の腕で抑え込まれ、次々と昏倒する女たち。男はその甘美な時間を思い出して、しばらく興奮に酔いしれていた。
 ばしゃ、とくとくとく……。
 男はそんな音にハッと気付くと、悲鳴を上げた。
 瓶の口を開けたまま床に置いてあったマジック・ホルマリンを、ひっくり返してしまったのだ。
 すぐに瓶を掴んで立たせたが、溶液の半分以上が床に染み込んだ後だった。
 男は軋むような異様な喚き声を長々と吐き出す。
 だがその時、不思議なことが起こった。
 半分まで減っていたホルマリンの溶液が、見る間に増えてひとりでにまた瓶の口のところまで満たされたのだ。
「すげえ……このマジックホルマリンはすげえよ。この薬は無限だ。これさえあればこの街の女全員を眠らせることだって夢じゃないぜ。キヒヒヒ」
 男は念のため瓶にしっかり口をすると、それを大事そうに懐中に忍ばせて街へ出る。
 本人は気付いていなかったが、男の顔はどうしてか完全に緑色に変色していた。

 その街は異様な空間に変わっていた。
 緑色の肌をした異様な男たちがどこからともなく現れて、マジックホルマリンの小瓶とハンカチを手に、女という女を襲い昏睡させてまわっていたのだ。女だけではない。女を守り襲撃を阻止しようとした男たちも、次々とホルマリンを嗅がされ倒れていく。
 数時間で、その街は住民全てが昏睡するゴーストタウンと化した。
 襲う相手がいなくなると、新たなる標的を求めて、緑色の男たちは次の街へ移動してゆく。
 実は、そんな光景が、ひとつの街だけでなく日本中の街で同時進行していたのだ。
 日本だけでない。アジア、ユーラシア、ヨーロッパ、アフリカ、ポリネシア、北米、南米……世界中でホルマリンとハンカチを手にした緑の男たちが、ニヤニヤ笑いながら女たちを襲っていた。
 中には、正常な男たちの反撃に遭い、射殺される緑の男もいた。大部分はまず殺されることはなかったが、これだけの規模の異変だと、割り合いは小さくてもホルマリン男の死体の数は決して少なくなかった。
 が、倒された緑男たちのホルマリンの瓶からは、とめどなくホルマリンが溢れ出し、それは下水や川に流れ込み、海へ流れ込んで行った。
 また、海上や海岸などで殺された緑の男たち、その死体が海に投げ込まれたりすれば、瓶から直接に大量のマジックホルマリンが海に流出した。
 世界中で非常事態宣言が出され、なんとか残った人々が緑男たちの掃討作戦を始めようとした時には遅かったのだ。
 海水が、いかなる化学反応の結果か、すべてマジックホルマリンと化していた。
 生きていた時のままの姿でホルマリン漬けとなった魚介類、サメ、マンボウ、イルカにクジラ……。
 それは、史上最大のホルマリン標本のコレクションであった。
 海から立ち昇るホルマリンの臭気で、かろうじて残っていた人々も全て昏倒した。
 海水を全てホルマリン化した後も、小瓶からのホルマリン流出は止まらず、やがて海面を押し上げ、地表の全てをホルマリンの海が覆った。
 こうして、地表にいた人間たちも、ぷらぷらとホルマリンの海の中で漂うことになり、生きていた時の姿のままホルマリン漬けとなってしまったのだ。
 それは、今度こそ文字通りの、人類史上最大のホルマリン標本ミュージアムであった。老若男女、和洋中華、富める人も貧しい人も、加えて全ての動植物に無機物人工物に至るまで……。もちろんそれは、人類最後の展示会でもあったが。
 緑男たちはどうなったかって?
 安心してほしい。見ればゲコ、ゲコ、ゲコと嬉しそうな鳴き声を上げながら、手足に生えた水かきで器用に海面を泳ぎつつ、空から近付いてきた円盤に熱烈に手を振っているではないか。

 マジックホルマリン、万歳。

==完==


●あとがき

こんな話でしたが、アレな展開を期待されていた読者の皆さま、どうか広い心でお見逃し頂きますように。(作者)

目次に戻る 前編へ


●感想フォーム
名前 メールアドレス

許す  許さん  失望した  月夜の晩ばかりでは…

コメント (何かあれば)


inserted by FC2 system