目次に戻る 後編へ


マジック・ホルマリン
前編

作:赤目(RED EYE)






「あーあ、なんでこの世は俺の思い通りにならないんだ」
 西日の差す薄汚いアパートの一室で、男が寝転がりながら天井を見上げて呟いていた。
 仕事もうまくいかないし、金回りも良くない。自然、女とも縁がない。
 男にとって女とは、あくまで金を出して買うものであった。
「こうなったら、その辺りを歩いているめぼしい女をどこかへ連れ込んで、強引にヤっちまうか。よし、そうしよう」
 こんな危険な思い付きをすぐ実行に移そうとするほど、男の倫理観と道徳は低かった。だが、妄想の中ではすぐ実現可能な計画でも、実際には大きな問題があった。男は大変気が小さく、人の目を見て話すことすらできないのだ。特に風俗嬢以外の女性に対しては、赤面恐怖症といってもいい状態であった。
「なんだよ、やっぱりこの計画もダメなのかよ」
 不貞腐れてごろんと寝返りを打った拍子に、畳の上に落ちていたチラシが目に入った。ニ〜三日前、新聞と一緒に入ってきたものだ。
 ザラザラの質の悪い紙に、これまたドギツイ緑色のインクで印刷された、見るからに趣味の悪そうな広告であった。

  “どんな女でもこれさえあれば確実にGET!
   新発売『マジック・ホルマリン(TM)』”

「ほう」
 男の死んだ魚のような目がギラと輝いた。
「なになに? 『あなたは街を歩いている美しい女性を見て、羨望を覚えたことはありませんか。なぜあんな女が自分の彼女じゃないんだろう。なぜいますぐベッドインできないんだろう。そんな声にお応えすべく開発されたのがこの商品、M(マジック)ホルマリンです。これさえあれば、どんな女でも一瞬でお客様のものに。使い方はカンタン。Mホルマリンの瓶から一滴だけ手近なハンカチに薬液を染み込ませてください。後はそのハンカチをお目当ての女性の口元に当てるだけ。効き目はバツグン、相手は一瞬で眠りこけてしまうでしょう。あとはお客様の自由にすれば良いのです。この商品は強力な記憶喪失剤入りで、薬を嗅がされた前後の記憶はナッシング。警察に捕まる心配もありません。なお当店だけの独占販売につき……』」
 声を出して読むうち、男の声に明らかな興奮が混じり始めた。
 男は居ても立ってもいられなくなり、バイクで宅配可能というこの商品を電話で注文した。
 男が電話を切った途端、玄関のチャイムが鳴る。
「はぁいぃ」
 面倒臭そうに返事して男がドアを開けてみると、なんとマジックホルマリンの宅配であった。
「もう来たのか」
「ハイ、当店は迅速がモットーですかラ」
 少し日本語がおかしい、帽子を必要以上に深く被った小柄な兄ちゃんが返事をした。
 兄ちゃんの皮膚がやけに緑がかっているのも、よく考えたら電話で住所を告げていなかったのも気になったが、とにかく男は商品を受け取った。安くはなかったが、有り金をはたけばなんとかなったし、期待の方が上回っていた。
 扉を閉めると、三和土に座り込んで早速箱を開けてみる。
 梱包材代わりに丸められた汚らしい新聞紙に埋もれて、無色透明の液体の入った小瓶と、緑色の液体が入った瓶が入っていた。
 ワープロで打たれた説明書によると、無色透明の方がマジックホルマリンらしい。もう一方が、いわばホルマリンの解毒剤。あらかじめ飲んでおくことにより、万一Mホルマリンを嗅いでも効果を消せると書かれれいた。
「なるほど、自分の薬で自分が倒れてたら話にならんからな。随分強力な薬品らしいから、ここは飲んでおいた方が良さそうだ。一度飲めば効果は半永久的か」
 男は説明書の文言を見ながら、キャップを開けて緑色の液体を一挙に飲み干した。
 名状しがたい味がして、しばらくめまいがしたが、すぐに収まった。
「さあ、あとはこの薬で女を眠らせるだけだ」
 だが、まだ午後の早い時間。さすがにこんな真っ昼間から女を襲うわけにはいかない。
 今夜に備えて、男は取りあえず寝ておくことにした。
 垢で汚れきった万年床に入ると、男は今夜のことをあれこれ考え始める。
「ああ、ホルマリンはいいなあ。これさえあればどんな女も俺に逆らえない。意識を失った肉体を自由にできるんだ、ウヘヘヘ……」
 男は、映画やTVでよくあるホルマリンによる昏倒シーンを思い浮かべる。不安そうに怯えてキョロキョロする美女。突然背後の物影から男の手が伸び、ホルマリンを染み込ませたハンカチが美女の口に当てがわれる。驚く女は抵抗しようとするが、すぐにホルマリンの昏睡効果に負けて、無念さをにじませた悶々たる表情で男の腕に中に落ちるのだ。
「うーん」なんて悩ましい声を洩らしつつ。
「ウヒヒヒ、最高だぜ。『うーん』か、堪んねえな。『うーん』だよ……」
 男は今夜来るであろう「その時」のことを何度もイメージしつつ、眠りに落ちた。



 男は日暮れ時に目を覚ますと、早速計画を練り始めた。
 まずは手近なところで、前々から目を付けていた近所の女子大生を狙うことにした。色白でムチムチしたボディのなかなかの美人だ。
 男のアパートの窓から見えるマンションに住んでおり、部屋は五階だ。なぜ知っているかというと、一度後を付けたことがあるからだ。
 窓からマンションを見ると、まだ女の部屋には明かりが灯っていない。帰宅していないのだろう。男は早速行動を起こした。
 帽子を目深に被ると、ポケットにホルマリンの瓶とよれよれのハンカチを忍ばせ、アパートの部屋を出る。
 不思議とホルマリンを持っているというだけで、世界が違って見えた。ああ、世界はなんと素晴らしいのか。今手の中にある小瓶さえあれば、どんな人間も俺に逆らえないのだ。ウキウキとはやる気持ちを抑え、外見だけは平静を装いながら、男はマンションの玄関に着いた。途中で通行人が男の顔を何気なしに見て「ひっ」と息を呑んでいたようだが、たぶん気のせいだろう。
 管理人がいないマンションの玄関を通り、エレベータで五階へ上がる。
 だが男はここで考え込んでしまった。
 いきなり女の部屋の前まで来たのはいいが、これからどうするか。まさか廊下やエレベータホールでずっと女の帰宅を待っているわけにはいかない。他の住民に見つかったら怪しまれるに決まっている。仕方ない、外の階段で待っているか、と外壁に吹き晒しになっている階段まで出てから、男はひとつの計画を思い付いていた。
 そうだ、階段から手近なベランダに飛び移り、ベランダ伝いに女の部屋まで行けばいいのだ。あとはサッシの窓ガラスを割って侵入すればいい。
 五階なのでかなり危険だが、なぜかできない気がしなかった。高所恐怖症の上、肝心なところでいつも引っ込み思案で臆病ないつもの男からは考えられないことだ。これもホルマリン所持がもたらす心理的効果なのかもしれない。
 男は階段の手すりの上に軽々と飛び乗ると、「ヒャッホー」とみっともない裏声で叫びながら、手近な部屋のベランダに飛び移った。危なげのない完璧な着地であった。まるで体操の選手のようである。
「一〇.〇〇」
 着地ポーズを決めて男が満足気に言い放ったとき、予想外の出来事が起こった。
 男の降り立ったベランダのカーテンが開き、ブレザー姿の女子高生が顔を覗かせたのだ。女子高生は男の姿を認めると、これ以上はないというくらい目を見開き、凍り付いた。
 男は即反応した。サッシの窓を外から掴むと、力まかせに引き開ける。女子高生にとって運の悪いことに、偶然鍵は掛っていなかった。
 声も立てずに踵を返して部屋の奥に逃げる女子高生に、男はとてつもなく沈着冷静に対応した。ポケットからMホルマリンの瓶とハンカチをサッと取り出すと、ホルマリンを一滴ハンカチに染み込ませる。間髪を入れずに、ベランダから部屋の奥まで一挙に跳躍していた。
「ひっ」
 女子高生は、背中を見せて逃げながら、それでも背後の異様な気配におののいて絶望的な声を洩らした。だが、そこまでだった。
 男の腕が女子高生を背後から抱え込み、もう片方の腕がホルマリンを染み込ませたハンカチを口に押し当てていたのだから。
「ぐふぅ、あふぁぁ、……」
 女子高生は少し抵抗したが、すぐにマジックホルマリンの効果に負けて、ぐったりとして意識を失った。
 男の望み通り、最後は「うーん」などと悩ましい呻きを上げつつ。
「やった、とうとう俺はやったのだ、ホルマリンで女を昏睡させたのだ」
 男は気を失って重くなった女子高生の身体を抱きかかえながら、激しい興奮を味わっていた。ぐにゃりと柔らかい暖かな身体。それを俺は自分の力で手に入れたのだ。
「確かに狙った女とは違うし、偶発的な襲撃だったが、成功には違いないからな。昏倒直前の『うーん』もしっかり聞いたし。ウヘヘ……」
 男は感激のあまり、五分あまりもそのままの体勢で立ち尽くしていた。この純粋で至福の時間が永遠に続けばいいと願いながら。
 だが、むろん、そんな邪まな望みが叶うはずはない。部屋の扉がいきなりガチャリと開かれた。


目次に戻る 後編へ



inserted by FC2 system