目次に戻る 前へ 次へ

すすめ!さざなみ児童合唱団

第二楽章 あおいの森の子供たち(三)


作:赤目(REDEYE)



 合唱団の子が全員声を揃えて、恵理子たち付き添いの保護者や相沢に礼儀正しく挨拶すると、それで今日の練習は終わりであった。
 もうかなり日は傾いている。
 三月の帝都は午後も遅くなるとまだまだ肌寒い。少し前に入れられた作り付けのストーブと大きな火鉢の周りに子供たちが集まった。
 一希が見たところ、まだどの子も帰る気配はないようだ。
 練習場の隅で一希が、スカートはやはり下半身が冷えるということを身を持って思い知らされていると、先にストーブに当たっていた早苗が呼んでくれた。
「ゆりのちゃん、早くこっちへおいでよ。ここ空いてるよ」
「うん、ありがと」
 子供たちは練習のあとの解放感からか、どの子も例外なく笑顔でお喋りを楽しんでいた。ほとんど女の子ばかりの集団なので、こうなると賑やかなことこの上なかった。
 ただ、中には昨日の合唱団発表会の楽屋であった忍者乱入事件について、ちょっと心配そうに話している子もいた。相沢は恵理子から事情を聞いたようだが、子供たちには伝えていないらしい。霧島家の子供を預かっている以上、事件に霧島研究所が関与していることをそのまま話すわけにはいかなかったのだろう。
 それにしても、この子たちはなぜ居残っているのだろうか。一希は、会話が途切れた間を見計らって訊いてみた。
「ねえ早苗おねえちゃん」
「なーに」
「これからまだ何かあるの?」
「ふふふ、あるよ。あたしもゆりのちゃんも大好きなもの。これがあるから厳しい練習も耐えられるんだもん」
「?」
 その時、しばらく前から居なくなっていた恵理子たち数人の保護者が、手に手にお菓子やお茶を載せた盆を持って練習場へ入ってきた。恵理子が叫ぶ。
「はーい、みなさんお待ちかねのおやつですよー」
「わーい」
「やったー」
 子供たちの自然の大合唱であった。

 一希も、せいぜい幼い女の子らしく、他の子供たちに合わせてきゃいきゃいはしゃいだが、別段おやつなど食べたかったわけではない。もともと甘い物は苦手であった。
 だが、ストーブの近くの床に腰を下ろして、目の前に置かれた盆の上の和菓子を見たとき、かつて経験したことのないような衝撃が全身を駆け抜けていった。
 なに? この痺れるような未知の誘惑は。
「おいしそう……」
 思わず呟く。表情はうっとりとしており、胸の前で小さな掌を組んで全身をくねらせる。
 この世にこんな愛しいものがあったなんて。頭がくらくらするような渇望。
 手を伸ばして和菓子をやんわりと掴み、生まれたてのひよこでも扱うように両方の掌で優しく包み込む。
 心まで蕩かすような甘い香りが鼻孔をくすぐり、天にも昇る気分になった。
 ああ、この魔法の食べ物が、いまから自分の口に入るなんて……。
 小さな口を控えめに開けて、まるで初めてのキスの時のように目を瞑りおずおずとお菓子の一片をかじり取る。
 舌の上で、細雪のような糖分の小片がやわらかに溶け、広がった。
「あぁ〜、おいし〜い」
 悶絶しそうな表情で小さな上半身を再びくねらせる。頭の赤いリボンが大きく揺れた。
「ちょっと、ゆりの……ゆりの」
 呼ばれて、一希はようやく我に返った。
 目の前に、霧島かなみがいた。
「あ、かなみちゃ……かなみお姉ちゃん」
 あやうく妹のふりをすることができた。もちろんいつ何時も、子供たちを含め他人のいる前ではそう振舞わなければならなかった。
 かなみは肩くらいまでの髪に、目鼻立ちのはっきりした感じの、キリッとした雰囲気の子だ。三年生で、八歳である。
 そのかなみが、すこし眉をひそめるような表情で言った。
「ちょっと、向こうで一緒に食べない? 話したいこともあるのよ」
 そう言われれば、断る理由はない。かなみとも妹としてうまくやらなければならなかった。
「うん」
 一希はうなずくと、お茶の入った湯呑みとお菓子の小皿を持って、かなみについて窓際まで行った。ここも、まだ陽光があるので、そんなに寒くはない。
 そこで腰を下ろすと、かなみが話し掛けてくる。
「ゆりのちゃんときちんと話をするのはこれが初めてね」
 幸い周囲には誰もいない。
「うん、いきなり妹にしてもらっちゃって……いろいろごめんなさい」
「それはいいの、おじいちゃまから話は聞いたから。これから、ほんとうの姉妹として仲良くやっていこう」
 そうは言ったものの、かなみは一希を値踏みするかのような表情で見ている。
 一希は少し不安になった。もしかしたら、六歳の女の子にしては何かおかしいところが自分にあるのだろうか。かなみは“ゆりの”の正体を知らないはずだ。もちろん義理の妹になったばかりの相手を警戒しているだけかもしれないが。
「ゆりのちゃんって、お菓子が大好きなんだね」
「え?」
「さっき、キゼツスンゼンな顔して食べてたよ」
「あ、あれは……」
 一希は、演技でなく本当に顔を真っ赤にしてうつむいた。
「あんまり、おいしそうだったから……」
「そうなんだ。確かにここのお菓子はいまどき最高級品が出てくるんだけどね。でも」
 かなみは、心なしか冷たい顔で窓の方を向いてしまう。
「あんまり食い気丸出しだと、ほら、霧島家の体面もあるんだけどな。他の子からちょっと笑われていたよ、さっき」
「そ、そう……今度から気をつけます」
 一希はますます顔を赤くして、両ひと差し指を胸の前で合わせてつんつんした。実際こんなに恥ずかしいことはない。甘い物を食べて恍惚としていたのもそうだし、一部始終を見られた八歳の少女から注意されるのもそうだ。
 どうも幼い少女になったことで、味の嗜好が激変したうえ自制心が希薄になっているらしい。さっきの夢見心地の気分を思い出すと、そうとしか思えなかった。
「もう、いいから、いっしょにお菓子食べましょう」
「うん」
 一希は再び、和菓子を口に運んだ。
 再び訪れる至福と、こみ上げてくるような甘い疼き。堪えられなかった。
「……あー、やっぱりしあわせ……」
 思わず洩れたそんな言葉に、かなみが大きなため息を付いたが、目を閉じて甘い味覚のとりこになっている一希には聞こえていなかった。

 そろそろおやつの時間も終わり、帰り支度を始める子やら、親の迎えが来るまで再びお喋りを始める子やらで、練習場が賑やかになってきた。
 そんな中、窓際でかなみと並んで座る一希のもとへ、おずおずとやってきた子がいた。
 たぶんさち子などとも同じ三年生くらいだろうか。胸にかかるほどの髪を山吹色のリボンでまとめて、フリルのついたミルク色のワンピースをそつなく着こなしている。肌は抜けるように白く、きらめく瞳は小動物系の可憐さだ。おそらくこの合唱団で一番の器量よしに思えた。
「ゆりのちゃん、こんにちは。あたし、惣……ソーコっていうの。これから、よろしくね」
「うん、こちらこそ。声をかけてくれて、ありがとう」
 ソーコはかなみをチラチラ見たりしながら、ややためらいつつも、続けた。
「あの……できればでいいんだけど。さっきゆりのちゃんが歌った歌だけど、とっても素敵だったから……今度あたしにも教えてくれないかな、なんて」
 どうやらかなり人見知りをする子らしい。
「もちろん、いつでも訊いてよ。あたしでよければ、どんどん教えちゃうから」
「わあ、良かった。うれしい」
 ようやくソーコは微笑んだ。ぱぁっと花が開いたような印象の笑顔だ。
「曲も良かったけど、詩がとてもきれいだと思った。いろんな言葉が、あるべきところにぜんぶ収まっているっていうのか……」
「そうだよね。東北の方の、まだあんまり知られていない詩人が書いた詩なの。作曲もしたんだよ」
「へーっ、すごいね。曲まで作っちゃうなんて。ゆりのちゃんはあの歌をどこで知ったの?」
「あ……うーんと、おじいちゃまに教えてもらったの」
「そうなんだ」
 かなみがおやつの後片付けの手伝いに立ってしまうと、ソーコはかなみが座っていた場所に腰掛け、しばらくゆりのこと一希と話し込んだ。最初こそ内気な印象のソーコであったが、いったん打ち解けるとすぐコロコロと笑ったりする子だとわかった。一希がみるところたくさん本を読んでおり、なかなか言葉への感性が鋭いように思われた。
 そのソーコが、突然怯えたような顔になって、言葉を切った。
 ソーコの視線の方を一希が見ると、短いおかっぱ髪のよく似た女の子が二人、並んでこちらへツカツカと歩いてくるところだった。
「ごめん、ゆりのちゃん、また今度……」
 ソーコは、顔を伏せるようにして、後も振り返らずにその場を離れていった。
 入れ替わるようにして一希の前にやってきた二人の女の子は、立ち止まって一希を威嚇するように見据えた。二人揃って腰に手に当てている。
「霧島ゆりのちゃんだったよね?」
 右側の女の子が言った。
 一希が座ったままただポカンとしていると、その子が続けた。
「返事しなさい」
「あ……う、うん……はい、そうです」
「あたしは二年生の木下市子よ」
「あたしは木下新子。ちなみにわたしたちは双子。あたしが妹」
「そ、そう……。これからよろ――」
 迫力に押されながらも一希が言いかけると、再び右の市子が口を開く。
「挨拶はもういいの。あのね、寂光院春江さんがあなたを呼んでいらっしゃるの。あたしたちについて来てちょうだい」
「寂光院さん? ――というと、あの巻き毛の歌のうまいお姉さんのこと?」
「そうよ」
「どんなご用なんですか」
「それはあたしたちに付いてくればわかるわ。――断るなんて許さないわよ。あなた、この合唱団でやっていけなくなるからね」
「あなたは入ったばかりだから知らないでしょうけど、寂光院さんは華族でいらっしゃるんだから」
 華族かよ、と一希は思わず心の中でひとりごちた。平成の日本では詐欺師くらいしか名乗らない族称である。
「わかったら、早く来なさい。さあ」
 市子が手を差し出した。
 今は逆らわないに越したことはない、しかも華族のお嬢さんの用というのにも興味があるし――と一希がその手を取って立ち上がろうとしたところへ、ちょうど母親に付き添われた恒夫が通りかかった。帰るところだったのだろう。
「おい、手下(一)に手下(二)、なにやってんだよ。また何かたくらんでるのか、ああ?」
「誰が手下(一)だ! あたしは木下市子よ」
「誰が手下(二)だ! あたしは木下新子よ」
 二人が同時に叫んだ。
「これ、恒夫。よその家の女の子に失礼な」
「イテテ、やめろよ母ちゃん」
 母親に頬をつねられた恒夫が悲鳴を上げた。
「……と、とにかく、赤リボン。そいつらには気をつけろよ。それと親玉のヘビ女にもな」
 声を掛けられた一希は、恒夫に訊き返した。
「ヘビ女って?」
「寂光院春江さんだよ。……イテテ」
 恒夫は再び母親につねられながら帰って行った。
「じゃあ、行きましょうか」
 市子は恒夫が去った方角をしばらく睨んでいたが、すぐに向き直って言った。
 市子と新子が一希の両側から挟み込むようにして、手をしっかり握って歩き出した。練習場の裏口に向かう。

==続く==


目次に戻る 前へ 次へ

inserted by FC2 system