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すすめ!さざなみ児童合唱団

第一楽章 とこしえは刹那のなかに(六)


作:赤目(REDEYE)



 脱衣場でも恵理子はゆりのの身体を拭いてくれようとしたが、さすがにそこまで甘えるのは良心が咎め、ゆりのこと一希は自分で手拭いを使った。
 それにしても、優雅な所作で手早く新しい和服を着こなしていく恵理子を見ているのは、それだけで一種の快感があった。気が付くと、恵理子はほぼ着替え終わっているのに、一希は真っ裸のままである。一希はちょっと慌てて女児用の下着を付け、上着とスカートを履いた。手の指も小さくなったので、ボタンをはめるのにも悪戦苦闘しなければならなかった。
 子供用とはいえ、スカートを履いたりするのは変な気分である。こんなのは高校の学園祭の喜劇で女装して以来だった。ちょっとサイズが大きいのは、たぶん霧島博士の孫娘・かなみの服だからだろう。
 なんとか他の女性と脱衣場で鉢合わせにならずにすんで、一希はホッと胸を撫で下ろした。恵理子は「さあ、もうひと頑張りして霧島博士に釘を差しておかなくちゃ」と張り切っている。
 髪を下ろして新しい和服に着替えた恵理子は、湯上がりということもありまた一段と艶っぽさを増していた。ゆりのはそんな恵理子に手を引かれながら、少しうしろめたいが小さな安らぎと幸せを感じていた。女児ゆりのになったことで、“母”に甘えたいという子供本来の欲求も内面に蘇ってしまったのだろうか。
 だがそんなひとときの平安も、廊下に出た途端に破られてしまった。そこには床にピタッと額を押し付けて土下座している白衣の男と、それを傍らで見ながらあきれ顔で腕組みしている同じ白衣の娘がいたからだ。男は脱衣場の方向に頭を向けて――すなわち今はそこから出てきたゆりのたちに向けてひれ伏していた。
 ゆりのと恵理子は自然に歩みを止めてしまう。
「あの小雪ちゃん……これって?」
 恵理子が女性の方に話し掛ける。
 小雪と呼ばれた色白で小柄な娘は、つぶらな目をしばたかせて「ああ、恵理子さん」と答えた。
「この人、さっきからずっと土下座したままなんですよ。あたしが脱衣場に服を置いて出てきたらもうここで這いつくばってて――。ま、恵理子さんにあんなことをしでかしたんですから当然ですけどネ。まったく日本男児の風上にも置けない情けないヤツですよ」
「?」
「三国一のドジ男、井上さんです」
「えっ?」
 恵理子とゆりのは顔を見合わせた。
「――恵理子さん、も、申し訳ありませんっ。先程は、と、とんだ失礼をっ。ご婦人に人前であのようなご無礼を働いてしまうとは、不肖この井上大助、一生の不覚であります。お許し頂こうなどとムシのいいことは考えておりませんっ。この上はどのようなご叱責ご処罰も受けますが、まずはとにかく謝罪の言葉だけでもお伝えしようと思いまして――」
 土下座したままの井上がそれだけの言葉を必死に絞り出した。
「ま、いい覚悟はしてるわね、それは認めましょう。でもどこまで本気で言っているのやら」
 小雪の挑発的な発言に、井上は土下座したまま床に向かって反論した。
「な、何をいう小雪くん、僕は本気だ」
「どうだか」
「――ちょ、ちょっと井上さん。お顔を上げてください、そんなことをする必要は全くないんですから」
 恵理子は廊下に誰か他の人が来ないかひやひやしながら、腰をかがめて井上に語りかける。
「あれは私も悪いんです。勝手に研究室へ入っていったんですから。ね、井上さん? そりゃあ恥ずかしかったですけど、私だって嫁入り前でなしもういい歳なんですから、どうってことありません」
「そ……そんなことは。恵理子さんは、いつもいつも……とても、お、お美しい方です。あああっ、私は何を口走っているのか、失礼しました気が動転してうわごとを。と、とにかく厳しいご処罰を」
「も、もう、何を言っているんですか井上さん」
 恵理子は湯上がりで上気した顔をさらに赤らめた。 
「あきれた――。こんな時に軟派な言葉を吐くなんていい度胸してるわね、井上クン。あたしたちの恵理子お姉さまはあんたなんかに絶対渡さないわよ」
 小雪は靴の先で井上を小突いた。
「小雪ちゃんもお止めなさい。だいたい誤解されるでしょ、お姉さまなんて」
 ますます困惑する恵理子。
「だぁって〜、恵理子さんって素敵なんですもの。女だてらに手広く商いを手掛け、合唱団の世話もして、さち子ちゃんを女手ひとつで立派に育てて――」
「合唱団のお世話をしているのは相沢先生です」
「そうですかぁ? みんな恵理子さんが本当の代表だって言ってますよ」
「小雪ちゃん、いい加減にして。と、とにかくお顔を上げてくださいな、井上さん。ね?」
 恵理子はしゃがみ込んで、井上の肩に手を置いた。
 井上はハッとして思わず顔を上げる。その目の前に恵理子が――。魂を奪われたように相手を見つめる井上。
「あ……ゆ、湯上がりですね……なんて、なんて――」
「視線が不純よ!」
 小雪が安全靴の底で井上の背中を踏みつけた。
「ぐふぅ」
「小雪ちゃん、やめなさいったら」
「やっぱりこんな婦女子の敵は許すべきじゃありません。御国のためにもなりませんし。――そうだ、先週内務省から払い下げられた電気椅子が基礎研究部にあるんですよ。この際あれで人体実験しちゃいましょう。三百ボルトくらいからだんだん電圧を上げていけば――」
「……え、恵理子さんのご沙汰とあれば、この井上大助、電気椅子だろうと何だろうと、座ります」
「もう、いい加減にしてください井上さんも。ほら、大の男がいつまでも土下座してるんじゃありません」
 恵理子は井上の手を取って、強引に身体を起こさせた。
 されるがままに、心ここにあらずといった表情で立たされる井上。恵理子に手を握ってもらったことが、井上にとって一大事件らしい。
「ちっ、うまく逃げたわね。今回はお姉さまのお慈悲に感謝しなさい。といっても以後馴れ馴れしくすることは絶対許さないから」
 小雪はまだ不満そうであった。
 あまりのことに、ゆりのはコトのなりゆきを呆然と見つめるしかなかったが、ここに来てようやく、「あの、井上のお兄ちゃん……」と声を掛けた。
「……ん? あ、ああ、ゆりのちゃん」
 井上はようやく夢から醒めたかのようにゆりのに気付く。
「ああ、この子が新しく合唱団に入るという女の子ね」
 ゆりのの頭を撫でようとした小雪の前に割り込むようにして、「い、いや、いいんだ、この子は」と井上はゆりのを守るように廊下の隅へ連れて行った。
「なによ、あれ」
 小雪はむくれた。

「抱炉さん、お見苦しいところを……うう。ところで、話は、どうなっていますか?」
 井上がボソボソと訊いてくる。
「ふう、助かった。ようやく男言葉で話せる」
 一希は小声で手短に状況を説明した。もちろんその声はかわいらしい女児のままだが。
 ひと通り聞くと、井上は「すぐ霧島博士に報告します」と言った。
 恵理子と小雪の方を見ると、二人はやはり合唱団員らしい小雪の妹の話をしているようだ。
「ところで……抱炉さん。まさか、バレてないですよね」
「もちろん。何度か危なかったがね。冷や汗をかいたよ」
「……」
 井上がジト目でゆりのを見下ろしている。
「な、なんだ?」
 ちょっと不安になって一希はつぶやく。いや、不安というより大人にこういう目で見下ろされると、子供になった今はむしろ怖かった。
「抱炉さん、あなた……恵理子さんの裸を見ましたね」
 キラーン、と井上の眼鏡が光った。
「う……うん、そ、そりゃあ見たさ、風呂場だから、裸にならないと入れないじゃないか」
 後ろめたい事実をズバリ指摘されて一希は少なからず動揺した。
「裸にならないと、って……。ど、どのくらい近くで見たんですか。はっきり、見たんじゃないでしょうね」
「どのくらいって……。そりゃあ、すぐ近くでシカと見たさ。身体とか、洗ってもらったし」
「な、なんですって。すぐ近くで、身体まで……。ぼ、ぼかぁ、許せないなそういうの」
 井上は歯軋りしていた。
「だいたいあなたは、研究室でも『おかあさま』だなんて、すぐに順応して甘えすぎだ。……それで、それでどうでしたか。恵理子さんの、一糸まとわぬ姿は……」
 一希は次第に興奮しはじめた井上に肩を掴まれた。
「それはキレイだったよ。なんというか、大人の色気がこう、えにもいわれぬ……。あと、ダッコして貰ったけど、胸の感触なんてもうなんといえば良いやら――」
「む、むねむね胸ですって? な、な、なぁぁ――。ほ、ほ・う・ろさぁんっ、あなたは破廉恥です、不埒です、あ、悪魔です」
 井上の手に力が入ってくる。
「だって、もともと君たちがおれを女の子にしたり墨をぶっ掛けたりするから……イテテ、いたいいたい。やめて、やめて」
 一希は情けないが声を上げてしまっていた。子供になった今では、大人の力は恐怖である。井上は鬼のような形相になって一希の肩を絞り上げ身体をガタガタと揺すっていた。
 だが“ゆりの”の声に、恵理子がすぐ反応してきた。
「井上さんっ、何をしているんですかっ」
「あ……」
 恵理子と小雪がこちらを向いて顔色を変えている。
 二人が目の当たりにしたのは、どう見ても井上がゆりのを力まかせに苛めている図だったから、当然といえば当然の結果だ。
「ち、違うんです恵理子さん、これはその……」
「井上さん、あなたを本当に見そこないました」
 恵理子はつかつかと歩み寄ると、ゆりのを抱きかかえるようにして井上から奪い取る。
「理由もなく子供を虐待するなんて、霧島博士もいったいどういう教育を部下になさっているのかしらね。だいたいこの子は博士のお孫さんですよ」
「あう、あう……」
「おばさま、ゆりの怖かった……」
 一希はすっかり“ゆりの”に成り切って、これ見よがしに恵理子の胸で甘えた。
「おお、よしよし。もう大丈夫よ、あの人にはこれ以上何もさせませんから」
「ぐっ」
 その姿を見て、井上がまた歯軋りする。ゆりのはこっそり井上を振り返って勝ち誇った笑みを浮かべてやった。
 小雪がここぞとばかりに畳みかける。
「お姉さま、だから言ったじゃないですか。こういう男はいつも口先だけで、心の底から反省なんて全然していないんです。粗相をしたら、身体でしっかり『いけないこと』だと憶えさせてやらないと」
「どうやら今回は小雪ちゃんが正しかったようね。――わかりました、電気椅子、五百ボルトから始めましょうか」
「ひええ、そんなぁ――」
 井上は恵理子の言葉に、ガックリと膝をついた。
「やったぁ、処刑だ処刑だ。これで念願の電気椅子通電試験ができるわ、きゃはは」
 絶望に打ちひしがれる井上を、恵理子と小雪が左右から腕を取り、ズルズルと廊下を引きずるように連行していく。
「ちょっ、ゆりのちゃん、何とか言って。僕が悪かった、助けて――」
 井上の悲痛な叫びが響いた。
 だがゆりのは、そんな井上に向かって思い切り「アカンベー」をしていたのだった。

 こうしてようやく、『霧島ゆりの』としての一希の生活が昭和十八年の日本で始まったのである。

==第一楽章 終わり==


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