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すすめ!さざなみ児童合唱団

第一楽章 とこしえは刹那のなかに(五)


作:赤目(REDEYE)



 ゆりのと恵理子は研究所に併設された寮の浴場へ慌ただしく連れていかれた。
 気が付くとゆりのは脱衣場で全裸にされており、やはり一糸まとわぬ姿になった恵理子の手に引かれて、浴室へ駆け込んでいた。ちょっとした銭湯ほどの広さがある浴室には、すでに一杯に湯を張った浴槽があった。
 まず恵理子は洗い場へ行って風呂桶に湯を溜めると、ゆりのへ頭からやさしく掛けて念入りに墨を洗い流してくれる。
 ゆりのがすっかりきれいになったのを確かめると、ようやく恵理子は自らも頭から湯を被るが、すぐに髪をまとめたままだったのに気付き、髪留めを外して髪を下ろすと、鏡を見ながら何度も湯を被って汚れを洗い流した。
「ふう」と恵理子は風呂椅子に座ったまま鏡に向かって大きく息をつく。
「たいへんな目に遭ったわね。一時撤退やむを得ず、か」
 傍らで立ったままのゆりのへ微笑みかける。
「まだ、おばさんの身体に墨はついてる? もう大丈夫かな?」
 ゆりのに姿を変えた一希は流石にどきまぎした。
「う、うん、もうだいじょうぶだよ」
 もじもじしながら言った。自分の声が甲高い女児のそれなのがまだ慣れなくて変な感じだった。
 そんなことより。
 『おばさん』だなんてとんでもない、恵理子の熟れたまぶしい裸身を目の前にして、一希は(今は)小さな胸が高鳴るのを抑えきれなかった。
 濡れそぼった長い髪に縁どられた、少し押し出しの強そうな顔立ちも、今は穏やかな湯気に和らげられ、わずかに赤らんだ頬やぽってりとした唇、そして弛緩した目の表情すべてが蠱惑的だった。
 しかもたわわな両の胸の張りつめた美しさ。
 経産婦とはいえまだ三十前、身体の線も崩れておらず、むしろ少し肉の付き始めた肢体は少女などにはないたおやかな官能が匂い立つかのようだ。秘部を覆う茂みも黒々と、横座りできれいに揃えた脚線のしとやかさ。
 そんな恵理子の無防備な姿を、女の子に姿を変えた自分がまったく警戒されずに独り占めしているのだから、一希だって正常な男、心をかき乱されても仕方がないといえた。
 ――落ち着け、落ち着け。
 一希は自分に言い聞かせた。この人はさざなみ児童合唱団の関係者なのだから、霧島博士の言っていた“潜入調査活動”の対象と考えていい。というか、先ほどの様子からみても陸軍にツテがあったり、合唱団の内部事情にも詳しい“要注目人物”なのだろう。なるべく幼女ゆりのとしてそれらしく振舞いつつ、今からそれとなく探りを入れておいて損はない。
 そんな一希の揺れ動く内心など知らぬげに、恵理子は手を伸ばしてゆりのの頬をやさしくつねって悪戯した。
「ぐにょー。あーん、ゆりのちゃんのほっぺ柔らかーい」
「あはは、おばさん何するのー」
 思わず幼女として素で反応を返してしまうゆりの。
「ほんとにかわいいんだから。鏡見てごらんなさい、ちっちゃなお姫さまが映ってるから」
 そう言って恵理子に頭を撫でられ、ゆりのは洗い場の鏡で初めてじっくり自分の姿を見た。
 肩までくらいの髪に、少し垂れ気味の目がキラキラと輝いている。鼻は小さく、ややおちょぼ口で、顔の輪郭はやや丸みを帯びていた。育ちが良さげで愛嬌も有りまずは快活そうな少女である。誰かに似ているような気がしたが、今は思い出せなかった。
 とにかく、二十一世紀的な子供の顔ではなく、うまく昭和十八年の子供の顔になっていたので、一希は安心――というか感心した。時代によって大人だけでなく子供の顔付きも変わってくるものなのだ。
 それにしても今の自分の姿がこんなにかわいらしいとは、改めて信じられない思いだ。背だって中肉中背の恵理子の胸ほどもないだろう。そのお陰で視点が下がり、大人は本当に『大きく』見えたし、体重も軽くなったので動きが俊敏になり、ぴょんぴょん跳ねたいような気分である。
 子供はまだ『重力』にがんじがらめに縛られていないのだ。小さくなった一希はその忘れていた感覚を思い出していた。
「ねえゆりのちゃん、今日ここはわたしたちが一番風呂みたいね。本当はいけないことだけど、石鹸でちゃんと身体洗う前に湯舟へ入っちゃおうか」
「うん、さんせーい」
 考える前に口が動いて手を挙げてしまう。演技というより、ごく自然な反応だった。
「よし、突撃せよ、ゆりの軍曹」
「はーい、きゃっほー」
 と歓声を上げながら、ゆりのは勢いをつけて浴槽へ身体ごと飛び込んだ。子供だから出来る技だ。
 盛大な水しぶきが上がったところへ、今度は恵理子も「それー」と言いながら湯をゆりのに浴びせ掛けながら入ってくる。
 浴室の中に二人の笑いとはしゃぎ声がこだました。

「ねえゆりのちゃん、どうしてさっきは霧島のおじいさまたちにあんなことをされていたの? あの攪拌装置とかいうものは何か知ってる?」
 ひとしきり水の掛けあいをしてじゃれ合ったあと、恵理子が訊いてきた。
 来た、来た。
 一希はゆりのとして振る舞いながら忙しく頭を回転させて“その理由”を考えていたが、それを内心冷や冷やしながら話す。
「あのね、ゆりの、どんくさいから……。あの器械はね、子供の血のめぐりを“かくはん”して良くして、頭の回転をはやくしたり、記憶力をよくしたり、いろいろできるらしいの。おじいちゃまにゆりのが自分で、やってくれるよう頼んだの」
「まあ、そうなの? それにしても危なくなかったのかしら。とってもじゃないけどちゃんとしたお医者で使うような器械には見えなかったもの」
「あ、危なくは、ないんじゃないかとおもうけど……おじいちゃまは、他の子ではまずいから、ゆりのでまず試すんだって……」
「やっぱりそうだったのね、霧島博士はああいう方だから研究のためには何でもするのよ。いくら御国の為だからって……。あとでちゃんと言っておいてあげるから、もうゆりのちゃんもそんな実験に付きあっちゃだめよ」
「う、うん」
 と小さく頷きながらうつむくゆりの。今更ながらこんな形で恵理子を騙すのは後ろめたかった。
「そういえば『女の子なんてやだ』ってゆりのちゃんは泣いてたみたいだけど……」
 ふと恵理子が漏らした言葉に、慌てふためいて水を跳ね散らすゆりの。
「え、えと、えと、あ、あれは……き、器械の副作用で、急に背が伸びることがあるって……まだそんなおっきな『女の子』になりたくなかったから、急に怖くなっちゃって……」
 一希は湯舟に浸かりながら背中を冷や汗が流れ落ちるような感覚を味わった。
「そう、それなら良いんだけど……」
 まだ少し納得できない様子の恵理子だったが、ここで脱衣場の方から声がした。
「恵理子さーん、湯加減いかがですかー」
 若い女性の声だ。
「あら小雪ちゃん、ありがとう。ちょうどいいわよ」
 知り合いらしく、恵理子も叫び返した。
「応用研究部のドジ所員がなんでも大変なご迷惑をおかけしたそうですねー。あとで、とっちめておきますからぁ。着替え、ここへ置いておきますね。汚れた衣服は洗濯して後日お返ししますのでー」
「いいのよ、気を遣ってくれなくて。強引に研究所へ入った私も悪いんですから。それより寮のお風呂占領しちゃっていいのかしら」
「どうぞご遠慮なく――。もうすぐ他の子も入ってきますけど。あ、あたしも今日は早く研究切り上げてひと風呂浴びようかな」
 そう言いながら小雪は去っていったが、一希はまた慌てふためいてしまった。どうも一希のことは研究員らしい小雪という女性には知らされていないらしい。この分では他の女性所員も知らないだろう。さすがに恵理子以外の“無実”の女性の裸まで見てしまうのはまずい。後顧の憂いがありすぎる。
 血相変えてザバッと音をさせ立ち上がるゆりのを見て、恵理子が言う。
「あら、そろそろ身体を洗う?」
「ち、ちがうの、ゆりのはもうお風呂から出ます」
「だめよー、ちゃんと身体洗わないと。ほらこっち来て」
 恵理子は有無をいわさず、強引にゆりのを抱き上げて湯から出る。
「きゃ」
 と小さく声を漏らしてしまうほど、密着した恵理子の肌はやわらかで心地よかった。
 ゆりのは洗い場に下ろされて、隣りに座った恵理子の手によって、たちまち石鹸の泡だらけにされていく。恵理子が身体を動かすたびにたっぷりとした乳房が揺れ、目のやり場に困った。
 優しく手を動かしながら、恵理子が話し掛けてくる。
「おばさんにもゆりのちゃんと同じくらいの娘がいるのよ。ゆりのちゃんより二歳くらい年上かな?」
「あ……さち子ちゃん」
 言ってから、しまったと思うゆりの。慌てて付け加える。
「おじいちゃまから聞いたの。合唱団のこととか、いろいろ……」
「うふふ、そうなんだ。じゃあ、さざなみ合唱団の出しゃばりおばさん、つまりわたしのことも知ってるのね? あたしも女はつつましいのが一番なのはわかってるんだけど、これは生まれつきの性格かな。つい全部面倒みちゃうのよ。――合唱団もあと少し主宰者の相沢先生がしっかりしてくれたらね……おっと、今のは内緒よ」
 恵理子はいたずらっぽく笑った。
「今日だって、抱炉さんという人が合唱団の目の前で拉致されたのに、相沢先生はうろたえるばかりで……それであたしが乗り出してきたってわけ。……そうそう。ゆりのちゃん、知らない? 研究所に無理やり連れてこられた二十歳過ぎくらいの男の人なんだけどね」
 ゆりのは頭を忙しく回転させた上、「その人なら……」と切り出した。
「えっ、知ってるの?」
 恵理子は手を止めた。
「すこし前から研究所へ通ってきていたとおもいます。なんか、出版社の人だとか……いろんな人からお話をきいて、軍のご本にのせるんだって」
「そうだったの……たぶんどこかの記者さんだったのね。でもなぜ無理に連れ去られたのかしら」
「おじいちゃまは、抱炉さんがまちがって大事な資料をお外へ持ちだしたんだ、って言ってました」
「軍事機密かなにかだったのかしら。それで……」
「いまは、特高のほうでいろいろ調べられているみたいです。まちがいだとわかればすぐ帰ってくる……んじゃないかな」
「まあ、そうだったの。それは心配だわ……。でもゆりのちゃんも詳しいわね?」
「う、うん、抱炉のおにいちゃんにはよく遊んでもらったから」
 ゆりのは目を逸らした。恵理子は再び手を動かし始める。
「そう……。さすがに特高で取り調べられているんじゃ、女のわたしごときがどうなるものではないわ……。ねえゆりのちゃん、もし抱炉さんが帰ってきたらわたしにもすぐ知らせてくれる? お礼をしなくちゃいけないことがあるの」
「はい……」
 ゆりのは恵理子の義理堅さに感銘を受けた。恵理子はゆりのの全身と頭を洗い終えると、今度は自分の身体を洗い始める。
「そういえばゆりのちゃんは合唱団に入らないの? おねえちゃんのかなみちゃんは合唱団でがんばってるよ」
 一希はふいを突かれて狼狽した。全てうまく護摩化せたと思ったところへ、一難去ってまた一難だ。霧島博士には本当の孫がいたのである。
「あ、あたしも合唱団に入ります……。おじいちゃまも入って良いって」
 と言うのがやっとであった。
「まあ、それはいいわ。ぜひそうしなさいよ、明日にでも相沢先生に話しておいてあげるから。ゆりのちゃんなら声もかわいいし、一発で入団できるわよ。かなみちゃんと姉妹で二重唱もできるし……。そうそう、ちょっとここで何か歌ってみてくれないかな? おばさんが観客よ」
「うん、う、うんと……」
 一希は頭を巡らせた。どんな歌が良いか。昭和十八年以降に作られた歌を歌ってしまうのはまずい。とすると軍歌か何かか、いや……。
 ゆりのは立ち上がって、今の自分の声域を慎重に推し量りながら、歌い始めた。
「『朝霧にけぶる 浜にてあゆむ――』……ごめんなさい、ここしか知らないの」
「まあ、さざなみ児童合唱団の団歌ね。いいわよいいわよ、歌声も音程もばっちりだよ」
 恵理子は喜んで泡だらけの手で拍手した。
「合格、合格、ぜったいよ。かなみちゃんがうまいから、絶対ゆりのちゃんもいけると思ったんだ」
 ゆりのはホッとした。やはり既にこの歌はあったらしい。
「かなみちゃんに教えて貰ったの? おねえちゃんとは仲も良いのでしょうね」
 恵理子は髪を手早く洗いながら訊いてくる。
 ゆりのは困惑したが、苦し紛れの作り話を重ねる今の顔色を見られないだけマシであった。
「えと……じつは、あたしおねえちゃんとは別に育てられたから……」
「……。ま、まあ、そうなんだ」
 恵理子はちょっとうろたえていた。
 髪を洗い終えると、ゆりのへ向き直って、両手でしっかりその肩を持つ。
「ねえゆりのちゃん、ウチの子と友達になってあげて。ね? ウチのさち子、歌は少しできるのだけど、友達作るのがとても下手なの。口ベタで、引っ込み思案で……ひとりっ子だから。これ、おばさんからのお願いよ。ね?」
「うん」
 ゆりのはやっとのことで頷いた。あとで、霧島博士と口裏を合わせておかねばならないだろう。

==続く==

●作者より
 次回でようやく第一章は終わりです。


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