目次に戻る 前へ 次へ

すすめ!さざなみ児童合唱団

第一楽章 とこしえは刹那のなかに(四)


作:赤目(REDEYE)



「鈴原……恵理子さん。なぜあなたがここに」
 そうつぶやいた井上を一瞬射るかの如く見ると、恵理子は研究員たちを押しのけるように進み出て、極小確率攪拌装置の上の裸の幼女ゆりのへ屈みこんだ。
「おじょうちゃん、大丈夫? 名前はなんていうの」
 そう優しく語りかける。
 ゆりの、つまり変身した一希は、暴れるのをやめて涙にかすむ目でその姿を見た。まだ変身の影響で頭は混乱していたが、さすがにこの状況を把握しつつあり、最悪の結果を招くような返答だけは避けるべきだと耳元で理性が囁いていた。
「なまえは……き、霧島ゆりの、っていうの……」
「ゆりのちゃん、霧島ゆりのちゃんっていうのね。まあ、それじゃあ――」
 非難がましい視線で霧島博士の方を見る。
 懸命にも、霧島厳十郎はとぼけた顔でその視線をやりすごした。年の功である。
「かわいいお孫さんを実験台に何をなさっているんですか」
 そう言いながら、恵理子はゆりのを抱き上げて、装置の上から救い出した。
「これは悪魔の実験ですか? 国の宝である子供を仮にも実験材料にするなんて、いくら霧島さんだって許されるはずがありません」
「あ……」
 ゆりのは小さな声を上げてしまった。
 なぜなら恵理子が、一端床に降ろした自分を、今度はしっかりと抱き寄せて護るように身体へ密着させたからだ。ちょうどゆりのの顔が、屈んだ恵理子の胸のところに埋もれるような形になった。
 着物のために外からはあまり定かではなかったが、その胸はかなり豊かであり、しなやかな感触は息苦しいようなときめきを覚えさせた。特に身体の小さな子供となった今では、頭全体がすっぽりと柔らかな肉に溺れるような格好になり、余計に心掻き乱される思いである。同時に甘くたおやかな薫りを胸一杯に吸い込み、何もかもとろけるように解された気がして、思わずゆりのはつぶやいていた。
「おかあさま……」
 その言葉に恵理子はゆりのの身体を更にギュッと抱きしめ、ゆりのの頭の上から耳元へ囁くように言う。
「もう心配しなくていいから。ここの人たちにひどいことはさせないわ。かならず守ってあげる」
 その慈愛に満ちたやさしい声に、ゆりのは夢見心地であった。
 その様子を見て目を白黒させたりドギマギしたりと落ち着かなかった井上が、なんとか声を絞り出す。
「あ、あの――」
「なんですか、井上さん」
 キッ、と恵理子が睨み返す。
「い、いえ……。ど、どうして、そもそもどうして貴女がここに――」
「抱炉一希さんのことです」
 恵理子は高らかに言い放った。
 そこにいた全員が、ゆりのも含めてギク、と身体を強張らせる。
「あなたがたが忍者部隊に頼んでここへ拉致したのはわかっているんです。――いいえ、護摩化そうとしてもダメです。わたくしにも少なからずツテがありますので、あの狼藉を行なった大元の親玉をつきとめるべく、陸軍省の作戦副局長にまで教えを乞いましたわ」
 よく見ると、恵理子の後ろの少し離れたところで、研究所の門衛が苦虫を噛み潰したような顔で立っていた。
 門衛は厳十郎の視線に気付くと、「申し訳ありません。さざなみ合唱団に関する過日の実験のことで緊急に、とこのご婦人がおっしゃるので……」と頭を下げると、持ち場へ帰っていった。
 どうやらさざなみ児童合唱団と霧島研究所は過去に接触があるらしい。しかも恵理子の様子からして恵理子と厳十郎は個人的な知己でもあるのだろう。
 いくらコネ筋といっても陸軍省の人間がそう簡単に民間人の恵理子に秘密を漏らすとは思えなかったが、たぶん最初から真相の当たりをつけていたに違いない。入り口でもどうせ陸軍のお歴々の名前を出して門衛を折れさせたに決まっていた。驚くべき行動力である。
「子供たちの目の前で、あんな無法で野蛮な連れ去り劇をなさって、いったい何をお考えですか? どの子もみな怯えています。しかもあそこは合唱団創立五周年の記念すべき演奏会場の楽屋ですよ。合唱団は過去に、善意で自発的に研究所へ協力してきたはずです。霧島博士、あなたは尊敬できる方だとばかり思っておりましたが、ご返答次第では考えを改めなければなりません。――さあ、連れ去った抱炉一希さんを返してください。あの方は合唱団の大切なお客様です」
 恵理子は余人に口を挟む隙を与えずそれだけ畳み掛けた。本来一希は恵理子の個人的な関係者のはずだが、戦術なのだろう。
 恵理子の迫力に完全に呑まれたのと、一希を返すといっても既にゆりのへ変身してしまって今恵理子に抱かれているせいもあり、研究所員たちが呆然としていると、なぜか井上が「えっ、ええっと、それはですね……」と言いながら後ずさりし始めた。何か適当な装置の動作を見せて、誤魔化すきっかけを作りたかったのかもしれない。
 それが運悪く、極小確率攪拌装置の横にあった筆プロッタの機構部分につまづくような形になる。
 井上が「あたっ」と言いつつ後ろ向きで派手に倒れたショックで、装置の筆につながっていた墨タンクのパイプが外れた。
 そこから。
 高圧でタンクに貯蔵されていた大量の墨が勢いよく飛び出して、ちょうど人垣の切れ目にいた恵理子とゆりの、その顔と上半身にドバッと噴射される格好になった。直前まで凜々しき聖母とその御子という有り様だった二人は、頭から真っ黒な液体をかぶってふた目と見られない姿に変わってしまう。
 たちまち共同実験室は上や下への大騒ぎになった。
「あわわわわ」
「井上君、何をやっておるのだ、早く噴出を止めるんだ」
「は、はい博士、い、いますぐっ(キュキュキュ)」
「攪拌装置は無事か」
「うおうさおう」
「誰か手拭いをたくさん持ってこい」
「いや、それより早く浴場へご案内するんじゃ。ご婦人に恥を掻かせてはならん。鈴原さん、大変なご無礼をいたして済まぬ。とにかく今は風呂で身体をしっかり洗ってくれぬか。抱炉君のことはその後で必ず説明する」
 咄嗟に渡された手拭いで顔をぬぐいながら、恵理子とゆりのは慌しく実験室から連れ出されていった。
 それを見ながら、厳十郎は肩の力を抜いてようやく安堵した。
「井上君、君にしてはなかなか機転が利くではないか。少々乱暴な方法じゃったが、とりあえずこれで時間稼ぎができる」
 だが井上の顔は蒼ざめていた。
「博士、違うんです。今のは本当に偶然で……ああ、恵理子さんのお顔に墨をかけてしまった……僕は、僕はどうすれば」
 井上は頭を抱えてしょげ返っている。
(――これで、あとは抱炉君がうまくやってくれれば良いのだが)
 厳十郎は後片付けを始めた研究員たちにてきぱき指示を出しながら、善後策を考えていた。

===続く===

●今回はここで切りました。次回はお風呂です。


目次に戻る 前へ 次へ

inserted by FC2 system