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すすめ!さざなみ児童合唱団

第五楽章 わざうたと月の夜(十)


作:赤目(REDEYE)



 そろそろ子供たちが床に就く時間だ――紅葉は油断なく周囲に神経をはりめぐらせながら、闇のなかに身体を潜めている。全身黒装束に身をつつんだ最高位の忍びで、大日本帝国皇帝である徳川義親の特命をうけて今宵さざなみ児童合唱団の警護にきていた。先日の突然の空襲の夜、一希たちの命を救ったあの男である。
 場所は葵鼎寺の山門前。月の澄んだあたたかな春の宵に、超絶の秘術をきわめた忍者が闇に身を溶かし、殺気さえはらんだ視線を周囲になげかけているとは、なんとも無粋で物騒に思えるかもしれない。だがそれは理由があってのことであった。
 普段はけっして人間世界にあらわれない闇の世界のものども――妖怪とか物の怪と呼ばれる存在――が、今夜は驚くべきことにちらほらと“こちら側”へ越境してくる。かつて世が天変地異や大災害などで乱れに乱れた時代にそういうことがあったと伝えられているが、近年は絶えてなかったことだ。
 そしてその中の何匹かは大胆にもここ葵鼎寺に侵入しようと企てている気配さえみえる。物の怪のたぐいに対しては最高度の結界がはりめぐされたこの寺だが、たった一箇所それが弱いところといえば人が出入りするこの山門であった。
 紅葉は、害意ある人物を排除するのはもちろんだが、妖怪変化の侵入を阻止するのも当然の任務であった。むろんそのための能力も充分にある。それで、こうして自分の気配を完全に殺して闇にまぎれているのであった。
 そうこうするうちに――見よ。往来のむこうから、異様な気配が近づいてくるではないか。世のすべての害毒と醜悪を体現したかのような妖怪変化が、のそのそと這うように道をやってくる。春の夜の空気のなかを、よどんだ黒い霧のような塊となってこちらに向ってくる。
 紅葉はすっと山門の前に立ちはだかると、両手で印を組み一連の呪文を唱えはじめた。
「臨、兵、闘、者…」
 そのとき。
 背後から想像を絶するような強大な力が迫ってくるのを感じて、紅葉はとっさに高く跳躍した。
 つぎの刹那、あらゆる害毒を焼きつくす破魔の火炎が渦巻きながらその場所を通過し、それはそのまま妖怪変化へと殺到した。
 たちまち燃えあがる妖怪。浄化の炎は苦しみを与えることはなく、むしろ菩薩の手の中であやされる赤子のように、巨きな慈愛に包みこまれた異形のものはやすらかに無へと還っていった。
「外寛和尚か――」
 紅葉は、たったいまの攻撃を避けて跳躍した樹木の大枝のうえで、半ばあきれたような呟きをもらした。
 なにを隠そうこの葵鼎寺の住職、外寛といえば仏法の秘儀をきわめた高僧として裏の世界ではその名を知らぬものはいない。もともと忍びがつかう秘術は仏教の奥義のなかから生まれたのものである。密教の真言からわかれ闘いのために進化した超絶の忍術だが、そのもとになった仏法の秘術のなかには忍術に欠けた特性のもの、それを凌駕するものさえある。あやかしを成仏させる、ついさきほどの破魔の火炎もそうだ。
「外寛殿といい義親公といい、あの子らのことになると本当に見境がない。困ったものだ」
 本音であった。主である義親帝も、いまこうして自分を本来徳川とはまったく関係のない私設の児童合唱団の護衛のために派遣している。立場上けっして公にはならぬことだが、なんということか帝もこの合唱団の歌声にほれこんでおり、物狂いのようにレコードやら少国民向け雑誌やらを集めさせているのであった。そんな合唱団の子らの危機となれば忍びをつかって影から全力で支援させるのも無理からぬ話ではあるのだが……。
 外寛殿は外寛殿で、いきなり効力がおおきすぎる術をあやかしにぶつけてくる。まるで油虫を叩きつぶすのに艦砲射撃を使うくらいの勢いだ。正確には自分が避けられるくらいの間合いを空けておいてくれたが、次からは完全な本気で術を放つだろう。忍者の手出しは無用ということか――紅葉はなんだかぼやきたくなった。今夜ここに来ていることは極秘であるし、極限まで気配を殺していたのだが、この寺の主にはすべてお見通しのようであった。

 ただ、外寛の強力すぎる術にもいいところはあった。一罰百戒、最初の一匹を巨大な力で消しさったおかげで、様子をうかがっていた他のあやかしの気配が葵鼎寺の周囲からぱったりとなくなっていた。
 智慧のある老人だからそこまで考えていたのだろう、とは紅葉は思わない。むしろ大切な子供たちを護るためには最初から全力でいく、という考え方をする老境にはほど遠い老師であった。
 これでは今夜自分がここへ来た理由もなくなってしまいそうだ――。
 だが、それほど落胆することもなかったようだ。やがて、あやかしとは異質の気配が彼方でゆっくりと動きはじめたのが紅葉には感じられた。
 黒装束からのぞく紅葉の眼が鋭く光った。
 これは相当の使い手――人外の者ではない。まるで魔人のようだが、人であることは間違いないだろう。何者であるか。
 どちらにせよ、その種の招かざる客をかならず排除することが帝から与えられた紅葉の使命である。それを全力で遂行するまであった。
 紅葉は闇のなかで牙を研いだ。

==続く==


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