目次に戻る 前へ 次へ

すすめ!さざなみ児童合唱団

第三楽章 いまそこにある非常時(六)


作:赤目(REDEYE)



 一希は突然の事態に呆然とするばかりであった。いや、正確にいえば情けないが恐怖で身体が凍りついたようになっている。
 ちいさな少女にすぎない今の一希からすると、必殺の形相で拳銃を抜いた帝国軍人は、悪鬼そのもの、いま世界にはびこる理不尽な死をもたらす魔物としかみえなかった。
 それは、多貴子と井上にとっても同じであったろう。二人とも逃げることはおろか声を上げることさえできず、その場で身体を硬直させている。
 だがその刹那。
 軍人が拳銃の安全装置に手をかけるより早く、背後からその手をひねり上げた者がいる。たちまち男の悲鳴がひびき、拳銃は奪われてしまった。
 いつのまにか背後にいたのは、桜色の着物姿のほっそりとした娘であった。
 娘は清楚な顔に微笑みさえ浮かべながら、それでも油断なく陸軍軍人に対峙している。
「少尉どの、すこし悪戯が過ぎましてよ」
 よく透る愛らしい声でいう。
「きっ、貴様ッ、な、何者だァッ」
 すでに男は逆上して前後の見境いさえつかないらしい。
 そのまま、今度は娘に襲いかかろうとした。
 だがその動きが突然止まった。
 その眼は、娘が懐から取り出した漆塗りの物体に釘付けになっている。
「お……お庭番……?」
 そう呟いた陸軍士官の顔から血の気がサアッとひくのが傍目にもわかった。娘がその小箱を元のところへ戻す。
「し、失礼しました……帝の親衛部隊の方とは、露知らずッ」
 男は敬礼の姿勢をとり、身体を硬直させた。青ざめた顔にはさっきまでの狂気の相は微塵もない。
「ホホホ、それでよろしいと思いますわ。酔って正体をなくした不逞軍人に見破られるようではこの仕事務まりませんもの」
「はッ……」
 陸軍少尉の額に脂汗がうかぶ。
「この人達は霧島研究所の関係者ですから、今度から街でみかけたら最大限安全に配慮してください」
 娘は一希たちを指していった。
「今回のことは貴官の部隊には報告しません。ただ次はありませんよ。この人達に危険の及ぶことがあれば、親衛部隊が原因を直接“抹消”することもありえます」
「わ……わかりました。か、寛大な御処置、有難うございます」
 帝国軍人はかすれた声でかろうじて返事を絞り出した。
 娘は取り上げた拳銃を男の腰のホルスターへ戻すと、相手の乱れた衣服と襟をかいがいしく直した。その間中、軍人は完全に固まっている。ヘビに睨まれたカエル――というより、閻魔大王の前に出された亡者という様だ。顔色は青いを通り越して紙のようになっている。
「これでよろしいですわ。……少尉、いつなんどきも大日本帝国軍人としての誇りと栄光を忘れないように。さあ、もうお行きなさい」
「はッ……」
 男はぎくしゃくとした動きで後ろを向くと、よろよろと歩き始めた。
「あっ、そうそう、少尉」
 娘が呼びとめると、男はギクッとした様子で立ち止まる。
「お酒はほどほどにしておいたほうがよろしいと思いますわ」
 クスクス笑いを含んだその言葉を、背中で凝固したまま受け止めると、次の瞬間陸軍士官はダッとその場から駆け去っていった。
「すごい……」
 呆然としながら多貴子がつぶやく。
 たしかに、異様な光景であった。
 だが一希が本当にあっけにとられたのは別の理由があった。娘が懐から取り出して軍人に見せたのは、三ツ葉葵の紋が入った印篭だったのだ。
 これは一体なんの冗談なのだろうか。

「危ないところを、有難うございました。まさか帝の親衛部隊の方が護衛についていて下さるとは思いませんでした」
 三人を代表して、井上が娘に礼をいう。
「霧島博士に依頼をうけておりましたのよ」
 そういって娘は微笑んだ。
「仲町多貴子さん、今後は帝国軍人にはどうぞお気を付けあそばせ。あんな応対をしていては、命が幾つあっても足りませんわ」
「ええ、わかりました」
 多貴子が珍しく素直に頷く。
 それではどうぞ車の方へいらして下さい、と言って街灯の影に身を寄せようとする娘に、井上が声をかける。
「あの……もしよろしければお名前を」
「名前ですか? ……“紅葉”とでも、しておきましょうか」
「そうですか……紅葉さん。あの、くの一ということでよろしいのですか?」
「さあ、どうでしょうか……ご想像におまかせしますわ」
 娘は上品な笑みをみせて、街灯に寄り添った。
 井上と多貴子はちょっと顔を見合わせると、一礼してダットサンへ向け歩き出した。
 一希が紅葉の顔をいま一度振り返ると、紅葉はおっとりとした微笑みをこちらへ返してきた。一希は戸惑うばかりだ。全体的な佇まいはどうみても気立ての良さそうで無力な若い女に過ぎない。だがたった今の士官の怯え方は尋常でなかったし、しかもくの一でない忍びの変化かもしれないのだ。そう、一希はあのそもそもの発端、さざなみ児童合唱団公演楽屋での出来事を思い出していた。あの時もたぶん子供たちの周囲に居ても怪しまれないようするためだろう、忍者が女に化けていた。
 様々な出来事が連続していたのと説明を求めてもはぐらかされるせいで 半ば忘れかけていたが、そろそろ事情をはっきりさせる時が来たようだ。

 走り出したダットサンの中で、一希は運転席の井上に後部座席から食ってかかった。
「井上さん、これは一体どういうことなんだ。あの紅葉という忍びは――そんなものが昭和十八年にいること自体信じられないが――陸軍少尉に印篭を見せていたじゃないか。……印篭! しかもご丁寧に葵の紋まで入っている。あんなものが帝国軍人に通用するはずはない」
「抱炉さん、いいところに気付きましたね。あの印篭は、親衛部隊の中でも特に精鋭にしか持たされていません。人数にしたらせいぜい四〜五人というところでしょう。忍者のなかでも殺人許可証まで所持しているのは彼等だけですよ」
「殺人許可証だって? ば、ばかな……。いや、そういうことじゃないんだ、なんであんな印篭を持った忍者が存在しているかってことだ。自分の知る限りそんな部隊が天皇の周囲にいたという話は戦後伝わっていない」
「たしかに、天皇の周囲にはいなかったわね」
 助手席の多貴子がこたえる。
「ほらみろ、多貴子さんだって――いやまて、現に存在はしているわけだろう」
「ひとつ不審なところがありました」
「なによ井上くん」
「いくら霧島博士の依頼といっても、忍者のなかでも精鋭中の精鋭、ふだん大日本帝国元首を警護している部隊の頂点のひとりが出てくるでしょうか。まさか“あの方”が自ら命令を……いや、まさかな」
「わからないわよ、あの人は破天荒なバカトノだから……あ、これはまずいか」
「酷いなあ、不敬罪でひっぱられますよ」
「ふたりとも、いい加減にしてくれ。……いったい何を隠しているんだ? そろそろ教えてくれないと……くれないと……」
「何だよ」
 一希は一瞬考えた末、後部座席に身体を投げ出して両手両足をバタバタさせて暴れた。
「おしえておしえて〜、おしえてくれなきゃ、やだぁー!」
 本屋ではイヤイヤの演技だったが、今度は本気で子供のフリをしての大暴れだ。
 井上が辟易した様子ですぐに降参してきた。
「わかりました、わかりましたって。今夜の外出は、抱炉さんの疑問を解消するのが最大の目的です。抱炉さんが完全に信用できるとわかりましたから。これから行く場所で、すべてを明らかにできるはずです――そうでしたよね、仲町さん」
「ああ、博士がそろそろ知らせていいってさ」
 一希はようやく暴れるのをやめた。……なぜか、こうして身体を投げ出して暴れるのが気持ちよくなりかけていた。子供の特権ではある。
「……本当?」
「本当です」
「うふ、おにーちゃーん、だぁーい好きー」
 一希は女の子になりきって後ろから井上の首に抱きついて頬をすり寄せた。
「わっ、ちょっ、危ない、男同士でこんなっ、やめなさいって」

 ダットサンは帝都の真の中心、帝都が帝都と呼ばれる所以のあの神聖にして侵すべからざる領域の傍らで止まっている。緑が多いのは今も昔も変わらない。巨大な堀をわたってくる風は、夜が更けたこともあり一希にはかなり冷たく感じられた。
 堀端に井上たちと並んで立ちながら、それでも一希はなにか違和感をおぼえずにはいられなかった。この風景にどこか――だが“今”は昭和十八年なのだ。戦後手を入れられた箇所もあるし、進駐軍の時代に公園として解放された土地、官公庁のために提供された区画もあったはずだった。そう自ら言い聞かせて、一希は奇妙な胸騒ぎをおさえようとした。
「さあ、ここなんですよ抱炉さん。いかがですか」
 井上が一希の違和感を見透かすように訊いてくる。
「いかがですかって――皇居の大手門前じゃないか。ここに何があるっていうんだ?」
 何かいいかける井上を、多貴子が制した。
「ここからはあたしが説明した方が説得力があると思うわ。――抱炉くん、じゃあ、改めて訊くけど、この大きな施設は都民から――いや、日本国民からどう呼ばれていると思う?」
「だから、どうみても皇居じゃないか」
「それが、違うんだよ。ここは江戸城と呼ばれているの」
「江戸城? まあ確かに明治以前は江戸城だったが……」
 そこまで言って、ふと堀の向こうへ眼をやった一希は息を呑んだ。天守閣が――。
「ふふ、気付いたようね。そう、天守閣があるの。江戸時代に焼失し、それ以来幕府がずっと、もちろん明治大正昭和を通じても再建されなかったはずの天守閣が」
 そびえ立つ壮大な天守閣であった。この時代、特に戦時下ということもあり、照明は暗く外観ははっきりと見えなかったが、窓々にともる灯や街灯などの照り返しで、その大きさはしっかり認識できた。たぶん日本の城の中でも最大級のものだろう。
「そ、そんな……ありえない話だ……」
 秘密裏に再建されていたのか? いや、そんな事実は絶対にないはずだ。一希は喉がカラカラに渇いてくるのを感じた。
 あまりのことに、ダットサンの横を三人連れの武士――帯刀し紋付袴に髷まで打った――が通りかかっても、すぐ疑問を口にすることはできなかった。
「では、ここでもう一つ問題です」
 多貴子は腕を腰に当てて、気取ったポーズを取ってみせた。モガファッションがそんな仕草によく映えている。
「この中、堀の向こうの貴い領域のなかにおられるのは一体どなたでしょう」
 そう言って右腕を堀の向こうへむけてサアッと広げる。
「昭和天皇――ミチノミヤヒロヒトだ」
 どうか当たっていてくれ、と一希は本気で思った。
「ブーッ、はずれ」
 多貴子が無常にも宣告した。
「この中にいるのは――天皇陛下じゃない。おそれおおくも皇帝陛下――その名、徳川義親」
 多貴子はそこでゆっくりと言葉を切り、一希が衝撃をうけとめ咀嚼するのを待つように間をおいた。
「“ここ”、この世界の大日本帝国は、天皇を元首とはしていないんだ。抱炉くん、これでわかっただろ。あたしときみが迷い込んだ昭和十八年は、あたしらの直接の過去ではない。ここは明治維新で大政奉還が行なわれなかった世界なんだよ」
 その刹那、一希がわけのわからない衝動にかられて声を上げようとした時。
 星のない曇った帝都の寒空に、わきあがる不気味な怪鳥の叫びがごとく、甲高いサイレンの音が幾重にもこだまして響きわたった。
 空襲警報だった。

==続く==

●作者から
 この章、六回で終わりのつもりが七回に。ともあれ次回で三章終わりです。


目次に戻る 前へ 次へ

inserted by FC2 system