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すすめ!さざなみ児童合唱団

第三楽章 いまそこにある非常時(三)


作:赤目(REDEYE)



「んぎゃーーーっ」
 井上の悲痛な叫び声が浴室にこだまする。
 最初のうち半泣きになり、罵られながらもおっかなびっくりで多貴子の身体を洗っていた間は良かった。だがしばらくして丸眼鏡が湯気で曇ったのをいいことに、すぐヘチマを持つ手をいい加減に動かしはじめたせいで、多貴子の不興を買ったのだ。
 突如多貴子に眼鏡をずり上げられ、「むぎゅの刑」と宣告された井上は、次の瞬間多貴子のはち切れんばかりのバストを顔全体に押しつけられていた。
 痛々しいが妙に一本調子の悲鳴を上げた井上は、デカパン一枚の姿で転がるように浴室から出ていった。
「――まったく湯助くらいちゃんと出来てほしいもんだわ」
 浴槽から一部始終をあきれながら見ていた一希の横へ、すぐに全身を洗い終えた多貴子が入ってきた。一希はとっくに身体を洗ってしまっている。

 別段いまここで話すべきことがあるわけでもなく、二人の間に沈黙が続く。
 それにしても――と一希は思った。
 いかなる神秘現象の悪戯か、唐突に昭和十八年へ飛ばされ、幼女に変身させられ、さらにここで同じ二十一世紀から来た女と並んで静かに入浴しているというのも、妙なものである。
 一希がふと不条理の笑いを愛らしい少女の声で漏らしたとき、横から鼻歌が聞こえてきた。
「フフフ・フンフー、フフフンフー」
 見えば多貴子が眼を閉じ、無心に口ずさんでいるのだった。なんだかこうしてみると、この破天荒な女性にも一抹のかわいらしさが感じられた。
 なんだかブラックフィーリングたっぷりの鼻歌だ。この曲は確か――。
「アース……でしたか」
 多貴子は片目だけを開いて答えた。
「ああ、そうよ。アース・ウインド・アンド・ファイアー(EW&F)の『セプテンバー』って曲」
 意外そうだ顔だ。
「こんな一九七〇年代の洋楽をよく知っているわね。懐メロマニアか?」
「いや、まあEW&Fは有名だし、ブラックコンテンポラリーのスタンダードだから」
「ふん、まあね。あたしも昔は聴きまり踊りまくりで、いろいろ音楽的影響を受けたもんだわ。レコードをカセットに録音して半速で再生して、何をやってるのか調べてコピったり……」
「古いな。今の耳コピーだったら音程が変わらないサンプラーが使えるのに。気の効いたパソコン一台あればもっと便利……」
「――ん? やけに詳しいな。抱炉くんはルポライターだと聞いていたが、音楽もやっていたの?」
 一希は口を滑らせたのを知ったが、多貴子は身を半分乗り出すようにして興味津々な顔になっている。話さないわけにはいかなかった。
「まあ、少しはね。インディーズでいまどき、えへん、流行らないフュージョンのセミプロバンドでちょっとだけ」
「どんなバンドだ? あたしもジャズ・フュージョン系は商売柄かなりこまめにチェックしてるぞ」
 一希が名前を言うと、なんと多貴子は知っていた。だが一希が関わったのはアルバムの一枚目だけだ。
「でも確か……あの一枚目はドラムがヘボで全体の足を引っ張っていたな」
 多貴子の言葉に、一希は暗澹たる気分になった。
「そのイモがおれだよ」
「おお、そうかい」
「自覚しているからこそ、引退してもっといいドラムと交代した。まあライターの仕事が猛然と忙しくなって、もう二足のワラジは履けなくなった時期とも重なってね。円満退団だから、その後もライブ手伝ったりはしてるよ。プロから見れば、“ゴッコ遊び”ってことは認識してる」
「抱炉くんは、本職の仕事のほうはどんな感じだった?」
「著作が一冊、書き下ろし中が二冊、共著多数、連載が五本、あと突発のルポ、名前の出ない仕事も抱えていた。新聞や雑誌に書き散らして、少し売れてはきていたけど、こちらだって世間的にはまだまだ無名の……あっ!」
 一希は突然叫んで浴槽の中で立ちあがった。
「し……締切り……」
 絞り出すように言うと、ガックリと肩を落としてまた湯船に浸かる。
「はっはっは、いま気付いたかい。自由業はお互い大変だな。あたしもこの時代に飛ばされてからしばらくして仕事の締切りに気付いて、真っ青になったよ。もうどうしようもないけどな。もし元の時代へ帰れても干されることは確実ってワケだ。ま、気を落とさず前向きにいきましょうや、ご同輩」
 一希の頭を、親愛の情をこめて多貴子がぽんと叩いた。そのままごしごし撫でられ、ついで頬をつねられいたずらされた。
「かわいいかわいい。まったくこんな天使みたいな“ゆりの”の正体がむくつけき男なんだってんだから、まだ信じられないわ」
「ほっとけ」
 一希は暫しされるがままになっていたが、相手があまりにしつこいので怒った顔を作って女児の口調で言った。
「やめてよおねーちゃん、ゆりのの頬っぺはお餅じゃないんだよぉー」
 多貴子は、キューピッドに心臓をズギューンと射ぬかれたような表情になった。
「あああ、もうだめ。もう耐えられない。……ゆりのゆりの、このこのぉー」
 顔をくしゃくしゃにして頬を押しつけてくる。正体がわかっていてもこの蕩けっぷり、どうやら根はかなり子供好きな人らしかった。

 風呂上がり、脱衣場の藤の長椅子でならんで涼みつつ、一希はふとした疑問を口にした。
「そういえば仲町さんはミュージシャンなのに締切りがあるということは、曲を作るほうも手掛けていたんですか」
「ああ、多貴子って呼んでいいわ。……そう、あたしの本職はアレンジャーってとこよ。クラシックじゃなくてポピュラー音楽のほう」
 それで合点がいった。よく思い返してみれば仲町多貴子という名に一希も聞き覚えがあったのだが、どうも楽器がはっきりしなかったのだ。確かに、TVドラマや映画の音楽をプロデュースまで含めて担当したり、オーケストラアレンジ版の名曲集CDを出したりと、定評のある結構名の知れた作編曲家のはずであった。そんな人が忽然と“現代”から消えたのだから周囲は大騒ぎだったはずだが、一般のニュースにならなかったのはあくまで裏方であるためだろう。
 ともかく、アレンジャーということはスタジオに入って自分で演奏するというより、大抵の場合スタジオミュージシャンを仕切るのも役目である。当然その方が単なる単なるプレイヤーよりも高度な仕事といえた。
 それを一希が言うと、多貴子は「あたしもなかなか有名だな」と気取った顔をしつつ、「でも」と続けた。
「自分では、何時いかなる時も一プレイヤーでありたい、と思ってるんだ。鍵盤楽器を弾くのは好きだしね。まああたしの基本的なポリシーってとこよ。――特に」
 多貴子は真顔になった。
「こんな奇縁で偶然さざなみ児童合唱団に入って、子供たちの中で歌っているうち、職業音楽家になって仕事に追われ忘れていたものを再発見した気分になってね。初心に帰らなきゃって」
「歌い手としてかなり鍛えられているね、あの子たちは」
「ああ。それで最近、自分が中学生のとき聞いた音楽のルーツを意識的に思い返したりして。あたしらの頃はEW&Fが普通にヒットチャートに入っていたり、ウェザーリポートに生前のジャコがいて来日してたりしたからな。あたしはウェザーの来日公演もセーラー服でしっかり観に行ったさー」
 一希は素直に羨望を噛みしめた。天才ベーシスト、ジャコ・パストリアスが在籍していた頃のウェザーリポートといえば、ミュージシャンの間でも完全に伝説のバンドとなっている。いずれも一希が生まれる前、一九七〇年代の話だ。とはいえ、しかし……。
「あれ、計算が合わないな。あの多貴子さん、失礼ですがお歳は……」
「三十八」
「えっ」
 一希はのけぞった。
「何をそんなに驚いているんだ、ああ?」
「到底そうは見えない――。せいぜい三十過ぎだとばかり。いやあ、若いな……」
 一希は半裸の、ほとんど体型の崩れていない見事なプロポーションをした多貴子を改めて見つめた。肌も四十が近い女とは思えない張りがある。
「おっ、そうか? なんか嬉しいじゃないか、おだてるなよ――ま、よく言われるけどな」
 多貴子はそう言いながらも素で照れた。
「あたしは若い頃グラビアの仕事もしていたことがあったからな。この業界に入ったのは歌手デビューがきっかけよ。あまり売れなかったが、そっちの仕事を続ける傍ら、本格的に音楽の勉強もして、作編曲を手掛けるようになったわけだ。まあバブルの時代の話よ」
「バブル世代か……、なるほど」
 一希はようやくこの女性の行動原理の一端を垣間見た気がした。
「なんだよ、悪いかよ。あたしらからみれば、抱炉くんみたいな二十歳そこそこの男なんてガキ、ガキ。さざなみの子たちとそうかわらん。アソコに毛が生えているかどうかの違いしかない」
 掌をパタパタさせながら多貴子が言う。
「むちゃくちゃいうなよ、姉さん」
 まさしく、一希にとっては年の離れた姉として接するしかなくなってきた。
「そういえば一希くんよ、なんで森のなかで鈴原さち子ちゃんと尻を見せあっていたんだ? もうロリコンとか言ったりしないから、今ここであたしだけに理由を話してみろ」
 多貴子はそれでもはぐらかすのは許さないという顔で訊ねてくる。一希は、多貴子が自分を練習場で襲って試そうとした本当の訳をようやく理解した。確かにあんな話を聞けば、性的倒錯を疑いたくもなるだろう。
 隠していてもしょうがない。どうせ後ほど霧島博士には今日一日の出来事を包み隠さず報告するつもりであった。
「それは……」
 一希はそうなった一部始終を説明した。寂光院春江に森の中へ呼び出されたこと。そこで仕置きと称して尻を叩かれたこと。さち子に見られ、尻を出したまま泣いていると、さち子が同じような格好をしてまで慰めてくれたこと。……。
 多貴子もようやく納得したようだ。
「おまえはちょっと軽率だよ。自分がいまは非力な幼女であることを忘れないようにしないと。いくら男爵家のお嬢さんが面白そうだからって、ホイホイ付いていくからそうなる」
「ルポライターは因果な商売で、好奇心は抑えられないんでね」
 一希は肩をすくめた。
「……ふ、じゃあ」
 多貴子は立ちあがった。
「これからそんな好奇心旺盛な一希くんを、ちょっくら面白いところへ連れていってやるとするかな」
 そう言って多貴子は意味深に笑った。

 一希と多貴子が廊下へ出ると、そこに井上が壁に手をつき「反省サル」のポーズで立ち尽くしていた。余人には近寄り難いどんよりと陰鬱なオーラが出てる。
「どうしたんですか、井上さん」
 一希が恐る恐る声を掛ける。
「放っておいて下さい。……僕はもう、恵理子さんに合わせる顔が……あんな遠い時代の下卑た女の乳房をこの口に含んでしまった……」
「誰が下卑てるって?」
「ひえっ」
 たちまちつっ込む多貴子におののく井上。どうやら周りの状況が全然目に入っていなかったらしい。
「今夜は出かけるから車の準備をよろしく」
「で、でも、僕はまだ研究が……」
「黙れ。最後まであたしの身体を洗わなかったくせに。研究なんて一日遅れてもどうってことないだろ。それよりあたしの言うことを聞かないと、また――」
 胸をそらして挑発する多貴子をみて、井上が即答した。
「わ、わかりました」
「そんなに悲壮な顔をするなよ。これは霧島博士からの頼まれごとでもあるし、井上くんにも付きあって貰った方が都合いいんだから。な?」
 多貴子がふざけて井上を抱き寄せると、井上ははじめて風呂上がりの多貴子の色香に気付いたらしく、心惑わされた様子で顔を赤くした。
「――おにいちゃんは恵理子さんが好きなのぉ、それとも多貴子さぁん?」
 面白そうに一希が声を上げる。
「な……。や、やめて下さい抱炉さん、女児のフリをして僕をからかうのは。そ、そんな不埒な……僕は然様な浮気者ではありません」
 視線をさまよわせながら申し述べる井上であった。

==続く==


●作者のひとこと
 なんだか多貴子は書きやすいなぁ。……なぜだろう(笑)。


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