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すすめ!さざなみ児童合唱団

第三楽章 いまそこにある非常時(一)


作:赤目(REDEYE)



 ゆりのは震えていた。
 狭いダットサンの後部座席で、窓際にピタリと小さな身体を寄せて、できるだけ仮初めの姉である霧島かなみから離れようと空しい努力をしていた。
 他になすすべもなく、悪意の掌で捕えられた小鳥のように怖れの虜となって。
 そんなゆりのの様子など素知らぬ顔で、かなみはシートにでんと腰かけて、膝を揃えておとなしく前を向いている。
 だが時々、暗がりの中からかなみが横目でこちらを盗み見ているのをゆりのは知っていた。
 その度に、またかなみの手がこちらへ伸びてこないかと思い、ゆりのは叫び出したくなるのをなんとか堪えなければならなかった。
 車窓にはきらめく銀の滴が幾筋もしたたり落ち、街の灯をにじませている。雨の匂いがした。
 ちょうど車が葵鼎寺を離れた頃から降り始めているのだった。
 ゆりの――こと幼い少女に変身させられた抱炉一希は、ついさっき出てきたばかりの合唱団の練習場での出来事を反芻していた。
「あなた……あなたほんとうにかなみちゃんなの?」
 半泣きのゆりのがそう叫んだあとも、かなみは畳に横たわったまま沈黙をとおしていた。おもちゃを与えられた仔猫のように眼をきらめかせ、口元に捕食者の微笑みを浮かべながら。
 ゆりのははだけたブラウスの前を必死で押えながら、へたり込んで震えているしかなかった。
 その時だ。
 襖がガラッと開き、井上が顔を出したのは。
「二人とも、いつまで捜して――」
 さすがに井上は二人の様子を見て驚いているようだったが、なぜか子細を問い詰めてくるということはなく、ただ「仕方がないなぁ」とつぶやくと、早く衣服を整えて表へ出るようにと言い残し、そこから立ち去った。
 井上の冷たい態度に、ゆりのは呆然とした。
 子供同士のことだから(“ゆりの”は大人だが)と、何があっても無関心なのだろうか。いや、まさか本気でかなみがゆりのを襲っていたとは、想像すらできなかったのかもしれない。子供同士の無垢な戯れだと思ったとしても不思議でない。
 ――あの時の井上の様子では、順を追って詳しく状況を説明しなければ、一希の受難は到底信じて貰えそうになかった。それは、当のかなみが真横にいる状態では叶わぬことである。ゆりのが本当は抱炉一希であることは秘密なのだ。
 この異常事態を報告するには、霧島研究所へ戻ってからにするしかない。それには、合唱団の練習場へ来たときと同じように、ダットサンの後部座席へかなみと一緒に乗り込むしかなかった。
 悪夢のようだった。
 ゆりのは小さな身体を慄わせて、せめて研究所に着くまでかなみの魔の手が伸びてこないよう、祈るしかなかった。練習場へ向かうときはなぜか目隠しをされたが、帰りはそれはなかったのがせめてもの救いだ。それにしてもかなみとは何者だろう。悪霊にでも取り憑かれているのだろうか。
 不安と怖れで一杯のゆりのは、運転する井上の後ろ姿を見ながら、その度し難い無神経さに今度はだんだん腹が立ってきた。いくらなんでもこんなに震えて泣いている自分の姿を見て、何も気付かないのだろうか。察しが悪いにも程がある。優秀な研究者だと聞いたが、浮世離れした学者馬鹿ではないのか。
 ゆりのは唇を噛んで、井上への恨みの気持ちで感情が爆発しそうになるのをじっと堪えた。
 そんな様子を、かなみが横目でこっそり可笑しそうに見ているのに気付き、また悔しくて涙が出そうになる。
 そうこうしているうちに、ようやく霧島研究所に到着した。

 車を降りると、井上はひとこと「付いてきて」と言ったまま後ろも振り返らずにさっさと二階にある応用研究部の共同研究室へ向かった。声をかける隙もない。ゆりのは遅れないよう小走りで付いていかねばならなかった。
 驚いたことに、井上の横にかなみもずっと寄り添ったままだ。
 ゆりのたちが研究室に入ると、霧島博士をはじめ多くの所員が待機しており、その中の何人かはあの巨大な蓄音器型の極小確率攪拌装置の周りを忙しそうに取り巻いていた。
「遅くなりました」
 と井上が頭を下げると、霧島が「こちらの準備もついさっき整ったところじゃよ」と答えた。
「攪拌装置の真空エネルギー管がなかなか暖まらなくてな。だがもう臨界値に達したようじゃ。いつでも始められるはずだ――そちらの小さな淑女は心の準備を終えておるかな?」
 そう言われて霧島の白髭面を見上げ微笑みながら答えたのは、かなみであった。
「ええ、大丈夫ですわ、博士」
「ん、んんっ、ええと、余計な男性研究員の人払いは必要ないですか?」
 井上が、言いにくそうにかなみに訊く。
「いーえ、お気遣いなく」
 かなみはちょんと首を傾け、スカートの端を持ってお澄ましなポーズを取った。
「じゃあやっぱり貫頭衣に着替えてくださいよ」
「あれってブカブカしてうざったいのよ」
 ゆりの=一希が唖然とするうちにも、かなみはさっさと衣服を脱いで全裸になると、井上から巻物を受け取って、極小確率攪拌装置の“ターンテーブル”の上にぴょんと飛び乗った。すぐに巻物を口にくわえ、四つん這いになる。
 一希がいまの姿に変身させられた時と同じである。
 ――ということは、まさか。
 ポカンと見つめる一希の疑念が、しかしみるみる大きくなってゆく。
「全くもう、しょうがないなぁ……。それでは、このまま始めます」
 井上が装置のクランクを回し始めた。
 次第にテーブルの下の真空エネルギー管がリズミカルに明滅をはじめ、装置の朝顔から「HIZ MAZTERZ BOIZ――」と聞こえる音声信号が響き、クランクの回転が上がるにつれ、光と音の乱舞がどんどん速度を増してゆき――とうとうテーブルの上に変異確率極限の霧が発生した。
 計器を見ながら全力でクランクを回していた井上が、確率極限収束のベルの音とともに力尽きるようにその場にへたり込んだ時、ターンテーブルの上では変異が終わっていた。
 そこに巻物を加えて四つん這いになっていたのは、ショートカットの大人の女性であった。
 女性は巻物を手に持ち変えると、そのままの姿勢で顔を左右に打ち振って「がおお。がおお」と何かの鳴き真似をしながら、さらに尻をくねくねと振った。どうやらライオンの形態模写のつもりらしかった。
 女性はひょいと起きあがると、装置の上で「うーん」と声を上げて伸びをした。
 肉感的な裸体である。
 小柄だが適度に脂の乗った肢体は、腰回りこそやや緩んでいるものの、充分張りのある豊かなバストや、太股にかけて見事なラインを描く大きめのヒップもあいまって、匂い立つような女っぽさを濃厚に発散している。ヘアは薄めだった。
 その顔は――異相であった。大きすぎる眼は、甘ったれるように濡れて輝いており、それでいて少し垂れていた。鼻は平べったく、おちょぼ口なのに下くちびるは厚い。丸顔だが口元が締まっているせいで、あまり柔和な感じはなくむしろ意志強固な印象だ。
 一度見たら忘れられないタイプの容貌であり、それでいて化粧もしていない素顔にさえ人を惹き付けて止まないものがあった。
 年齢は、三十を少し過ぎたあたりだろうか。
 この人は、なんだろう――と一希は思った。
 そうだ、猫だ。しかもかなり年季を経た手練の――飼い猫でない野生のヤマネコだ。
 その猫と眼があった。
「よっ」
 猫は片手を上げて挨拶してきた。少し鼻声だがよく通る低い声だ。
 にたっ、と微笑みを浮かべる。
「あたしの名前は仲町多貴子――ミュージシャンだ。抱炉一希くん、キミと同じく二十一世紀から何の因果かこんな時代へ飛ばされてきた人間だよ」

==続く==


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