目次に戻る 前へ 次へ

すすめ!さざなみ児童合唱団

第二楽章 あおいの森の子供たち(五)


作:赤目(REDEYE)



 鈴原さち子に見られた。
 それを認識した途端、一希の頭の中は真っ白になった。どうしていいのか全くわからない。
 いまさらながら、寂光院に叩かれた尻が赤熱し、痛み出した気がする。
 こんなところで、四つん這いになって、お尻を丸出しにされ、三人がかりで女の子に折檻され、あげくそれを別の女の子に見られ――。
 気付いたとき、一希は声を上げて泣いていた。
 情けなくて、心が痛くて、泣かずにはいられなかった。そして一旦泣き出すと、身体が子供になっているせいか、心も子供に帰って世界の全てが哀しくなりとめどなく涙が溢れてくる。
 だが――。
 泣きじゃくる一希の耳に、ふと、別の声が割り込んできた。
 さち子の声だ。
「ゆりのちゃん、ゆりのちゃん、見て、これ見て、顔を上げて見て」
 すぐ近くで繰り返している。
 一希がはっとして顔を上げると、そこには剥き出しのお尻があった。
「ほら、これ見て、お尻だよ、お尻だよ。ほら、こうするから、ぺんぺん」
 さち子は、剥き出しの尻を付き出した格好で、顔だけこちらを振り返りながら、懸命に自分の尻をペチペチと叩きはじめた。
 あまりのことに、一希が泣くのも忘れ呆然とそれを見つめるうちにも、さち子は子供らしい一途さで、お尻を叩き続けた。
 一希はなんとかしゃがれた幼い声を絞り出した。
「さち子ちゃん……な、なにをしてるの……」
「お尻だよ、お尻だから」
「わ、わかったから……わかったから、もうやめて」
 ようやくさち子はその作業を中断すると、本当にこのまま止めて大丈夫かと、振り返って一希の目をじっと見た。
 お尻を一希の方へ突き出したまま。
 しばらく二人の間に沈黙が降りた。
「ぷっ」
「ふふっ」
 どちらからともなく、吹き出して――やがて二人の笑い声が雑木林の中に響いた。

 二人の少女は衣服を直すと、小経の傍らに置かれた太い丸太の上に並んで腰かけた。
 さち子が「ちょっとここへ座ろうよ」と声をかけたからだ。
 まだ少し涙でゆるんでいる“ゆりの”の顔を見ながら、さち子が言った。
「ここへ来る途中、寂光院さんたちとすれ違ったよ」
 目を伏せる一希の小さな手を、それよりはほんの少しだけ大きなさち子の手が、包むように握りしめた。
「あの、あたし……」
 言いかけた一希の言葉を、さち子は微笑みとわずかに力を込めた掌でさえぎった。
「わかるから。わかってる、から」
 さち子は、握った一希の手をスカートの膝の上に置いた。そして口を開く。
「寂光院さんはね……ときどき、やりすぎちゃうの。やりすぎちゃって、きっとあとで……後悔してるんだと思う。あの人ね、すごくお歌が好きなの。あたしと同じくらい……世界でいちばんお歌が好きなあたしと、同じくらい好きだと思う。だから、ときどきやりすぎちゃうの」
 さち子は握りしめた一希の手を、自分の胸のところへ持っていった。
「だから、ゆりのちゃん。寂光院さんを許してあげて?」
「え……」
「許せないかもしれないけど……ああ見えて、寂光院さんて悪い人じゃないんだよ。そりゃあ、ときどき――ううん、まあちょくちょく、意地悪なところも目につくけど」
 一希は吹き出した。
「うふふ、その調子よ。もう、だいじょうぶ?」
「うん」
 一希は、どちらかというと口下手で大人しいと聞いていたさち子の意外な包容力に、感じ入ってしまった。
「ゆりのちゃん、お礼がまだだったね。さっきは、練習場で歌ってくれてありがとう」
「ううん」
「あの歌、ほんとうに大好きな歌なんでしょう? 聴いててよく伝わってきたよ。――やっぱり、思った通りだった。ゆりのちゃんなら、あたしや寂光院さんのようにソロで歌えるって」
「えっ? そんなの無理よ。二人ともコンクールで上位独占なんでしょう」
「あは、寂光院さんから聞いたの? でも、相沢先生はいばっちゃダメだって言ってた。戦争のせいで、参加者も減ってるの」
 一希は、なんと答えてよいかわからなかった。
「それだけじゃないよ……さざなみ合唱団の団員も、どんどん減ってる。逆に入団してくる子は、しばらく前の霧島かなみちゃん以来、本当に久しぶりなの。ゆりのちゃんがうまい子で良かった」
 さち子は、ふたたび一希の目を見ながら言った。
「合唱団で歌うようになって、いろんな人から、歌で勇気付けられたとか、明るい気持ちになったとか、言ってもらえるようになったんだ。特に、ラジオに出たり、レコードを吹き込んでからは、日本中の人からそう言われるの。――だから」
 さち子は、大きく息を吸い込んで、思い切るように続けた。
「あたし、ちょっと自惚れているんだよ。戦争でいっぱい人が死んで、泣いたり、絶望したり、前に進めなくなった人たちに、歌で少しだけ希望を持ってもらえてるのかって。相沢先生は、子供の元気な歌声はいつも大人を安心させるんだって言ってた。だから――」
 さち子はぐっと一希の手を握りしめる。
「やろう、ゆりのちゃん。日本を明るくするの。あたしや、寂光院さんや、さざなみ合唱団のみんなといっしょに。できるから、本当に。お国のためだよ?」
 その純粋な瞳。
 少女は大きすぎるものをそのか細い肩に背負おうとしていた。――いや、もう背負っているのだろうか。
 一希はこれまで、戦前や戦中の人々を、どこか愚直で取るに足りない考えしか持たなかったのだろうと捉えていた。異常な国家に導かれるまま、結果として疑うことなく戦争を遂行していたからだ。少なくともそう教えられたし、幾つかの書もそう言っていた。
 だが、それは果たして――。頭でっかちな後付けの正義で、当時の人々のひたむきさを断罪し安心していただけではないのか。
 一瞬、目の前のさち子の瞳と、あの平成の日本で出会った大人のさち子――子供たちから、先生と呼ばれていたさち子の瞳が、半世紀以上の時空を隔てて重なった。
 気が付くと一希は、「うん」と大きく頷いてさち子の手を強く、強く握り返していた。
 さち子の顔に微笑みが広がる。
「じゃあ、指切りしようか」
 さち子は小指を差しだす。その指に自分の小指を絡めながら、一希は相手の声に合わせて照れもせず腕を振った。
「指切りげんまん嘘ついたら針千本飲ます」
 指を離したあとも、一希はやや呆然と付き出した自分の小指をみつめていた。さち子が言う。
「ねえ、そういえばあたしまだちゃんと自己紹介してなかったよね?」
「え……ああ、うん、でも練習場でさち子おねえちゃん名前呼ばれてたし、恵理子おばさまからも話しを……って」
 “切った”小指を見つめるうち、ようやくコトの重大さに気付き始めた一希。
「なんだ、あたしまたやっちゃった。自己紹介する前にゆりのちゃんにお尻見せちゃったよ。てへへ、みんなには黙っててね、おあいこだし」
「……そ、それよりさっきの指切りには条件があるの。とてもさち子ちゃんのようには歌えないから、あたしにできるカンタンなとこだけ……」
「だーめ。指切ーったんだもん」
 さち子は笑いながら正面を向いた。
「もう約束した。あなたは三人目のソリストになるの。そうすればソリストだけで三重唱だってできるんだから。――あたしから相沢先生にも頼んでおくわ。もう決まったことなんだから」
 そう言ってさち子は立ち上がる。
「ひどいよ、そんないきなり。あたしなんか、まだ全然……」
 さち子の言葉に揺すぶられ安請け合いしてしまった一希だが、もちろん合唱団内探という任務のためにはそんな目立つ行動が足枷にならないはずもない。
 さち子は一希の抗議も聞こえなさげに小経をもと来たほうへどんどん戻りはじめた。
「寒くなってきたわね……もう練習場は閉まっちゃってるかな」
「あっ、待って、さち子おねえちゃん。おねえちゃんたら」
 その背中を、一希が懸命に追いかけてゆく。
 そろそろ辺りは日が陰って気温が下がり、逢魔が刻がやって来ようとしていた。

==続く==


目次に戻る 前へ 次へ

inserted by FC2 system