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すすめ!さざなみ児童合唱団

第二楽章 あおいの森の子供たち(四)


作:赤目(REDEYE)



 練習場から出た一希が連れられていったのは、寺の敷地の外れの雑木林の中であった。だんだん緑陰が濃くなり本格的な森になる境目あたりに東屋があり、そこでひとりの少女が背中を向けて立っていた。――バイオリンを悠然と弾きながら。
 すでに市子たちに手をひかれて緑の小経を進むうち、バイオリンの音が一希の耳にも聞こえてきていた。バッハのシャコンヌだろうか。子供にしてはなかなか悪くない腕前のようだ。
 東屋の前まで来ると、市子と新子は一希の手を握ったまま立ち止まった。どうやら曲が終わるまで待つつもりのようだ。東屋は斜面の少し上にあり、ちょうど一希たちのところからは見上げるような格好になる。
 巻き毛の背の高い少女は、待っている人がいるのを知ってか知らずか、とにかく曲を弾き終わり、バイオリンを肩から下ろすと、雅やかにこちらを振り返った。
「あら」
 微笑みをこぼす。 
「もういらしていたのですか。ごめんあそばせ」
 市子と新子が熱心に拍手した。
「さすがです、お歌だけでなくバイオリンの腕前もバツグンでいらっしゃるなんて」
 双子の少女は、澄んだ瞳をきらめかせて声を揃える。
「ホホ、この程度は旧家に育った者として当然のたしなみですわよ。――市子さん、新子さん、わたくしのご用をきいてくださってありがとう」
 少女はこのとき初めて一希の存在に気付いたかのように、こちらに視線を送ってきた。
「あなたは……たしか、霧島かなみさんの妹の、ほら、お名前はなんでしたかしら」
「ゆりのです。お初にお目にかかります」
 一希は恭しく頭を下げ、スカートを端をつまんで広げつつ、挨拶をした。
 呼び出しておいて「お名前は」もないだろう、と思いながら。
「まあ、そんなにお小さいのに目上の者への教育が行き届いていますわね。さすがに平民とはいえ霧島の家のお生まれですこと」
 少女は気を良くしたようだ。バイオリンと弓を東屋の石机の上のケースへしまい込むと、改めてこちらへ向き直る。
「自己紹介がまだでしたわね。わたくしは寂光院春江ともうします。三ツ葉葵女学院初等科の三年に通っておりますわ。寂光院の家は爵位を授かっておりますけれど、恐れ入らずとも普通に接してくださってよいのですよ」
 そう言いつつ、寂光院は腕を組んで一希を見下ろした。
 面長でそれなりに大人びた気品のある寂光院にそう出られると、一希はいっそ「へへー」と這いつくばってやりたい気分になったが、余計話がこじれそうなので止めた。
「あなたねえ、なにその反抗てきな顔は」
「寂光院さんにしつれいでしょう」
 たちまち両側から市子と新子にツッコまれた。
「いえ、反抗的だなんてそんな……」
「ホホ、良いのですよ」
 寂光院は余裕をみせた。
「まだお小さいから緊張してらっしゃるのでしょう」
 そう言って寂光院は東屋から出て、ゆっくりと斜面の石段を降り始めた。
「今日ゆりのさんに来てもらったのは他でもありません。……今後貴女がさざなみ児童合唱団でやっていく上で、いくつか助言をさせていただこうということですのよ」
 寂光院はほんとうにゆっくりと階段を降りてくる。
「ゆりのさんは、さざなみ児童合唱団のことをどのくらいご存知なのかしら?」
「ごめんなさい、実はあんまり……。おじいちゃまに、良い合唱団があるから入ってはどうかと言われて……すごくお歌がうまい人ばかりいるって聞きました」
「ふふ、そんなことだと思いましたわ。歌がうまいというのは、あたくしを始めとして鈴原さち子さんもいらっしゃるし、本当ですけれどね。――この合唱団は」
 そう言って寂光院は立ち止まり、芝居がかった仕草で空を見上げた。
「日本一の合唱団ですのよ……あらゆる意味で。相沢先生の書かれる新作童謡はすばらしい曲ばかり。合唱団はそれを歌って人気絶頂。レコードにも何曲か吹き込みました」
 一希は思わず口笛を吹きそうになった。この時代、レコードはかなりの貴重品で、平成の日本のように素人以下の歌手がじゃんじゃんCDに吹き込めるような状況ではない。戦時中だからというより、そもそも戦前からそうである。全てが失敗の許されない一発録りの世界であり、かなりの音楽的実力がなければレコーディングなど端から無理だった。
「それだけはありません。あたくしと鈴原さんは、ソロでも童謡を歌ってレコードを作って頂いております」
「わあ……」
 一希は思わず声を上げた。うまいとは思っていたが、二人の実力がそこまでは高いとは、予想外ではあった。
「あなた、ようやく寂光院さんのすごさがわかってきたみたいね」
「気付くのがおそすぎるのよ」
 市子と新子に捲し立てられた。
 寂光院は“ゆりの”が素直に感心しているので機嫌を良くしたようだった。
 またゆっくりと階段を降り始める。
「あたくしがこの合唱団に入ったのは三年前。つぎの年に相沢先生のご推薦で鈴原さんと一緒に全国童謡コンクールへ出て、あたくしが金賞を授賞しましたのよ。ちなみ鈴原さんは銀賞ですわ」
 寂光院は気取った仕草で髪を掻き上げた。
「すごい……寂光院さんて本当にすごい方だったんですね」
 一希は、この巻き毛の少女のおそるべき自信の拠りどころがわかった気がして、まんざらお世辞でもなくそう言っていた。
「ほほほ……ゆりのさん、わかっていただけば良いのですよ。今後は新人として分をわきまえて、あたくしたち合唱団の大先輩のいうことをよく聞いて練習に励まれると良いですわ」
 ここで、もう階段をほとんど降り切って一希の目の前に来ていた寂光院は、ほんの少し表情を歪めてソッポを向いた。
「ちょっと相沢先生から誉められたくらいで、いい気になられては……」
「え? 相沢先生から、あたし……そうだったかな」
 寂光院に睨まれた。
「あなた、憶えていらっしゃらないの? ああみえて相沢先生はなかなか人を手放しで誉めませんの。特にたかだか新人に、入団試験であそこまで……」
 そこまでムキになって言いかけた寂光院は、一瞬悔しそうな顔をして唇を噛んだ。
「……とにかく、まだ何も知らないことを自覚していただきたいですわ、ゆりのさん。それから、鈴原さんにも」
 寂光院はわざとらしく大きなため息をついた。
「歌を歌ってほしいなどと言われて、あなた歌いましたね。たかが新人がやっていいことと悪いことをわきまえなさい。鈴原さんは拍手してましたけど、あれは決して良いお歌ではありませんでしたわ」
 寂光院はまたソッポをむいて、心なしかうわついた声で断言した。
 一希は返答に窮した。
「だいたいあなたは……ちょっと、そこに居るのはどなた?」
 寂光院は、樹木の影に誰か見つけたらしく、そう呼びかけた。
 一希たちは一斉にそちらを見た。しばらく何も起こらなかったが、とうとうあきらめたように白いワンピースの少女が後ろめたそうな顔で姿を現した。
「あ……ソーコちゃん」
 思わず一希は呼びかけていた。
 ソーコは、目だけでこちらへ応えてくる。胸にはぎゅっと小さなキツネのぬいぐるみを抱えていた。
「ソーコさん、いったいどういうご用ですか?」
 寂光院は、すっかりお冠といった様子で、腰に手を当てて詰問していた。
「人の話を立ち聞きするなんてはしたなくてよ」
「そうよそうよ」
 市子と新子が声を上げる。
「ごめんなさい……あの……ゆりのちゃんが心配だったから」
 そう言って、恐る恐る寂光院や市子・新子を見る。
「あなたね、わたしたちはゆりのさんに今後の合唱団生活について親切に指導しているだけですよ。誤解されるようなことおっしゃらないで下さい」
 ソーコは寂光院に睨まれると、顔色をなくした。
 一希は自分のために来てくれたソーコに申し訳なく思ったが、今はどうしようもない。
「そんなお姫さまみたいな格好をして」
「おべべだけ女の子っぽくしてもね。あなたなんか……」
 市子・新子の連続攻撃に、唐突に寂光院が割り込んだ。
「待って。新子さん、その話はいいの」
 目で二人に合図する。
 一希は意味を計りかねたが、すぐに寂光院が続けた。
「もういいからお帰りなさい、ソーコさん」
 そう言われると、ソーコはさっと踵を返して小走りに戻っていく。
 一希はその背中に「ソーコちゃん、ありがとう」と呼びかけるのがやっとだった。

「あんなに怯えて、ソーコちゃん、よっぽどこわかったのかな……」
 思わずつぶやいた“ゆりの”だったが、背中に寂光院の鋭い視線を感じてすくみ上がった。
「ゆりのさん、わたしたちが何かいけないことをしているとでも?」
「い……いいえ、そんな……華族の寂光院さんからじきじきにいろいろお教えいただいて、ゆりの、光栄です。寂光院さんはそんなに気品がおありだしたぶん子爵くらいですよね。やっぱり偉い華族の方って……」
 寂光院は細い眉をピクリとさせた。
「あ、違う……じゃあ伯爵……え、違うんですか……じゃあまさか侯爵?」
 一希はだんだん険しくなる寂光院の表情に肝を冷やしながら、泥沼にはまったことを知った。
「寂光院家は男爵です」
「そ……そうだったんですか。でも、きっと古くから男爵を授かっているお家なんでしょうね」
 寂光院はむすっと押し黙る。
 双子の恐るべき表情から、また何か地雷を踏んでしまったことに気付く一希。
「うちは五年前からですわ」
 寂光院はそっぽを向く。
「そ、そうなんですか」
 うろたえる一希。あまりに貴族風を吹かせるので、よほどの家かと思ったのだが、男爵の爵位は国家に功労があった者をはじめ戦前かなりの数が与えられていたはずであった。
「で、でも、今年の童謡コンクール金賞の寂光院さんなんだもん、やっぱり凄……」
「ゆりのちゃん、あなたしつれいよ」
 市子が被せるように声を張り上げた。新子が続く。
「寂光院さんが金賞だったのは去年! ことしは鈴原さち子ちゃんが金賞で……」
 そこまで言った新子の口を、さすがにまずいと思ったのか市子が押えた。
 が、もちろんもう遅い。
 寂光院はこわいオーラをどんよりと発しながら、低い声で言う。
「あたくしは今年銀賞でしたから」
 どう返していいのかわからない一希。双子も固まっている。
「そうよ……どうせ……あたしは今年鈴原さんに負けたわ」
 そしてスッと一希を睨む。
「赦してあげようかと思ったけど、やっぱりあなた生意気……お仕置きが必要ね」
「えっ」
 一希は身がすくんだ。
「市子さん、新子さん、準備して」
「はいっ、寂光院さん!」
 寂光院の怒りが自分たちに向くのを怖れてか、双子は機敏に命令にしたがい一希を押えつけた。
「ちょっと……な、なにするんですかぁ……やめて、やめてください」
 抵抗しつつも、二人掛かりで押え込まれ、四つん這いにさせられた。大人の時なら女の子二人ぐらい無論なんともないが、今は非力で小さな幼女に過ぎない。
 寂光院は突き出した一希のお尻の方へ回り込み、一希のスカートをまくし上げる。そして間髪を入れず、レモン色のショーツをずり下げた。
「きゃぁ」
 その瞬間寂光院が何をする気なのか悟った一希は悲鳴を上げたが、もはやどうしようもない。
 寂光院の長い腕が舞い、平手が一希のむき出しの小さな尻を見舞った。
 ぱんっ。あっ。ぱんっ。やぁぁん。ぱんっ。はぁ。ぱんっ。あぁぁ。ぱんっ。やぁゃぁん。
 ……。
 まるで現実味のない十数秒であった。世界がスッとどこかへ遠ざかったような感じがする。
 身体を押え込んでいた双子が離れたあとも、一希は剥き出しの尻を晒したまま四つん這いで凍り付いていた。
「ゆりのさん、あたくしへの無礼や合唱団の調和をやぶる行動、心から反省しなさい。これに懲りたら、今度練習に来るときはもっと大人しくしていることね。――おわかりかしら」
 そこまで言うと、寂光院は返事も訊かず歩き出した。
 一希は顔を上げることもできない。
「寂光院さん、これバイオリンです」
 市子の声がする。
「あら、ありがとう」
 三人の声が遠ざかっていく。
 屈辱を感じるというより、まだ自分の身に起こったことが信じられず、一希はただへたり込んで呆然としていた。
 どれくらいそうしていただろう。
 冷たい風が吹いてきて、剥き出しの尻を撫でていく。
 そこでようやく、下半身が丸出しなのを思い出した。
 一希が芋虫のように身体をもぞもぞし始めた時、小経に誰か立っている気配がした。
 ハッとして顔を上げる。
 鈴原さち子だった。
 見られた。こんなところを見られた。

==続く==


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